ほぼ足りてまだ欲 その先

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「戦陣訓の呪縛」

戦陣訓の呪縛―捕虜たちの太平洋戦争

戦陣訓の呪縛―捕虜たちの太平洋戦争

原題The Anguish of Surrender : Japanese POWs of WW-II
 著者のUlrich A. Strausはドイツ系ユダヤ人として生まれ、1933年に家族共々日本に移住。1940年に米国へ移住。ミシガン大学卒と書かれている。
 実は米国への移住から3年、1943年にニューヨークの彼の家を訪ねてきたのはポール・ラッシュ大尉だった。かつて在日アメリカンスクール(ASIJ)に在籍していた生徒を探してミシガン大学にある陸軍の陸軍情報語学校への入学を勧誘していたという。16ヶ月の日本語学習によって、トリリンガルだった彼はGHQで働くことになり、東京裁判にも関わり、フルブライト試験に受かって慶應義塾大に学ぶ。1955年に外交官試験に通って、外交官として活躍。1978-1982には沖縄総領事。フィリッピンでの米国代表を務めたりした。ことし89歳になるはずだ。
 ここに出てきたポール・ラッシュは1897年の生まれ。1925年にYMCA立て直しのために来日し、立教大学で教鞭を執り、清里の開拓に尽力。日本にアメリカンフットボールをもたらした人で、開戦後も日本への残留を希望したが、敵性外国人抑留施設「スミレキャンプ」に収容された後、日米交換船で帰国。この時にアメリカから交換船で逆に日本に帰ってきたのが先日なくなった鶴見俊輔である。
 ウィキペディアにも書いてあるが、こうしてポール・ラッシュはMISの語学学校人事課長として日系二世軍人等への日本語教育にあたった。戦争終結後の1945年9月10日に再来日してGHQの参謀第2部(G2)配下にあった民間情報局(CIS)に従事。立教大学では戦中倉庫と化していたチャペルの前に佇むポール・ラッシュの写真が残っている。ポール・ラッシュは直ちに時の学校当局に勧告を出している。
 自炊して読み始める。
清里の父 ポール・ラッシュ伝

清里の父 ポール・ラッシュ伝

日本聖公会―ポール・ラッシュ報告書

日本聖公会―ポール・ラッシュ報告書

 立教大学出版会のことを教文館の店員さんがしらないだなんて、地に墜ちたもんだこと。