ほぼ足りてまだ欲 その先

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あいつは

 あいつは精神障害を負っているんだとばかり思っていたのだけれど、どうやらそうじゃないような気がする。最初聴いた時は病院に措置入院させられていたというけれど、なんということのない振りをして10日やそこらでやり過ごしたと周りに自ら語っていたというのだ。
 そうではないのだとすると、それではどうして重度障害者ばかりを狙った犯行に踏み切ったのだろうかという疑問が浮かぶ。普通の人間だったらどうしてそんな発想になったのだろうかという疑問が浮かぶ。園長の話だと2月に突然そんなことを平気で周りに語り始めたといっている。
 気になるのはやっぱりナチスがやっていた障害者を排除する蛮行だ。若い人たちを中心として弱者を有無を云わせず排除するという思想が流布しつつあるような気がして気になってしょうがない。
 既成権力に異議を申し立てようとすると「だったら出ていけ」と平気でいってしまう。保守というより極右翼思想に立つ人たちが「人の命」「命の尊厳」を真剣に考えない表現に躊躇をしていない。
 云うまでもないが、石原慎太郎稲田朋美麻生太郎などはいうに及ばず、小林よしのり曽野綾子のような極右精力と判断しても間違いのない連中が、平気で障害者、公害に犯された人たち、高齢者、難病患者といった人たちに驚くような言葉を使って貶めて少しも気にしていない。
 小池百合子鳥越俊太郎を称して「病み上がりを連れてこなくたって」という表現をしたことを瞬間的にマスコミは取り上げたが、直ぐさま昔のスキャンダルを持ってきて打ち消した。「病み上がり」をそんなに取り上げなくたって良いじゃないかという雰囲気を作り出した。鳥越がいうように、サバイバーや、闘病中の人たちはどんな気持ちになったことだろうか。
 最も有名なのは1999年9月18日に府中療育センターを知事として視察した石原慎太郎が発した「ああいう人ってのは人格あるのかね」ということばだ。どうも、彼はこの時もほかにいろいろ発言していて、「これだけのケアをしているのは日本だけじゃないか」というところに落としているようだ。逆手にとって慎太郎はよく見ているのに、マスコミがこの言葉を切り取ったのだという解釈をする人もいる。
 しかし、慎太郎はほかにも『週刊女性』2001年11月6日号で「松井孝典(東大名誉教授)がいってるんだけど女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね」と発言している。
 この思想は曽野綾子の「『いくらでも生きたい』は傲慢」「権利を『求め倒し』、医療を『使い倒し』、他人を『頼り倒す』ことは肯定されない」に繋がる。小林よしのりは「国民としての役割を果たし終えて、若者の迷惑にしかならない老人は安楽死するのが一番いい。」と発言している。
 自分が年寄りの部類だから云うわけではないけれど、この思想、もう役に立ちそうにない、ただただ、無為に時間を貪る者どもには余計な費用をかけるなという考え方が普通に主張できてしまう状況。
 今度の犯人が衆議院議長に書いた手紙が全文そっくりあっという間に公開されたことに幾分の違和感があるが、そこには「監禁は二年ぐらいにして貰って、社会的に復帰させて貰って、5億円くらい頂戴ね、安倍晋三によろしく」位の文章になっている。なんだかまるで政権の手先になって殺しを担当したんだ、褒美をくれといっているかの如くだ。
 そこで既に妄想に取り付かれているんだから精神鑑定が必要だといわれようになるのだろうけれど、これだけ、周りに平気で人間の尊厳を無視するだけではなくて、それを積極的に排除することになんの問題があるのかという価値観を大ぴらにしても誰もそれがとがめられない社会はやっぱりおかしい。
 今度の犯人は自分は安倍晋三を中心とした既得権力の側に立っているんだと思っている。犯罪者だと思っていない。警察で口にしたといわれている遺族に多する謝罪というのは彼が措置で入院していた病院でやり過ごして10日やそこらで退院をした、あのやり口をなぞっている発言だ。送検される時のあの表情を見たら、あいつは自分を一種のヒーローだと思っている。
 プロセスとして精神鑑定をすることにはなるだろうけれど、彼は明確な殺意を持って何人もを刺した。疑う余地がない。こうした風潮を作り出してきた社会を憤然とだめ出しをするのは政権与党の役割だと思うが、今の政権与党そのものが今上げてきた連中によって作られていることが日本を壊していっていることは認識しなくてはならない。