ほぼ足りてまだ欲 その先

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人口密度

 日本人が他人を慮るということにヘタックソなのは人口密度が高くて、そんなことをしていたら街中を歩くことすらできなくなっちゃうからなんだとばかり思っていたんですよ。そして忙しいから無我夢中で歩いて行かなくちゃならないしって。
 でも良く考えたら、昔は狭いところを歩いてきて、向こうから来た人と避ける方向が一緒になっちゃってお見合い状態になったら「あ、ごめんなさい!」とか「失礼!」とかいってましたよ。いまの方がほとんどそれをいわないでしょ? 
 アメリカや、豪州あたりに(それしか自分では経験がないからだけれど)暮らして日本へ帰ってくると、日本人が他人に対してとっても冷たい、というのはとても感じます。例えばどこかの入り口の扉を押して開いたら、後ろから来る人がいないかどうかをいうことを日本人はまったく無視をします。あとから来る奴のことなんか知らない、俺は自分で扉を開けたんだから、あとから来る奴も自分で明ければ良いじゃないか、と主張しているかの如くです。
 扉を支えて待っていて上げても、「ありがとう」といってくれるのは若い女性くらいのものです。それも半分くらい。残りの半分は私が支えている扉と反対側の扉を開けて通っていきます。あたかも、お前なんかの世話になったら気持ち悪い、とでもいいたげに。(ま、そう受け取るのは私がへそ曲がりだからなんですけれどね)。
 ここまでいうと「そういう習慣に慣れていないからね」といわれます。それは習慣になっているか、いないかの前に、他の人に対する気遣いをしなくても良いのだというショーグニズムに立脚しているといって良いんじゃないかと思うのですよ。
 大の大人が後ろから来るどこの馬の骨かわからん奴になんで気を遣うのか、それほど暇じゃないのだといっているんですかね?
 または「日本人はシャイだから」という反応も普通にありますな。表現をするのが恥ずかしいというんですね。だから年寄りやもうじき母親になろうという人に席を譲れないと。シャイというのは、もし、譲ろうとすると断られたらイヤだというのもあるし、もうひとつは「あのやろう、良い子ぶりやがって!」と声をきらっているんですよね。あれ?学校で困っている人には席を譲ろう!」と聞かなかった?もっとも、こういうことは学校じゃない、親の教育ですね。親が知らん顔をするから子どもも知らん顔をする。そりゃ当たり前です。
 豪州の鉄道の駅では乳母車に子どもを乗せたお母さんがさしかかると、どこからともなく誰かがでてきて乳母車を手伝って階段をあっという間にクリアできます。日本では「お手伝いしましょうか?」といっても断られるのがほとんどです。そんな雰囲気が周囲に全くないから、なにをされるのかと警戒してしまうんでしょうねぇ。
 レスリングの試合で相手が技を避けようとして、自分で自分の身体を痛めて、そこで棄権しました。勝った日本選手は儀礼的に審判、相手のコーチに挨拶をしますが、痛いといって仰向けになったまんまの当の選手を気遣うそぶりはまったく見せませんでした。スポーツマンシップというものはもはや日本では語られないのでしょうね。それは騎士道であり、武士道だったはずなのに。山下と決勝で相対したエジプトのラシュワンは山下が痛めていた足を攻撃することはせずに銀メダルに甘んじました。いまの日本だったら、きっと「バカじゃないの!?」といったでしょうね。