ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

28年

 あれから28年。それは平成元年2月16日のことでした。
 午後の昼下がりもかなり時間が経って、そろそろ小腹が空きそうだよなぁと思いながら、8階建ての一階のだだっ広い事務所の端っこにある休憩スペースのようなところで、旨くもないインスタント・コーヒーでも入れようといった。そこに展示会用に買ったモニター代わりのテレビが置いてあって、無声のまま、ひどく映りの悪いどこかのチャンネルが見えている。なにしろアンテナをちゃんと立てているわけじゃないんだから、もう映っているとはいえない、何だかぼう〜っと判別がつけそう、って位だ。
 そのモニターに映し出されているのはヘリコプターで、今度は地上が映ると、工場街の屋根越しに煙が立ち上っている。なんだ、工場火災なのか、今時乾燥してんからなぁと思っていたのだけれど、そのうち、どうもどっかで見たような気がする工場街だ。
 気になったので、二階の総務部のちゃんと映るテレビを見に行った。仕事の関係でよく知っていた室長がいたので、ちょっと見せて、といったら、「あぁ、良いところへ来た!修繕の工場で火事なんだよ!誰も仕切る人がいないで、混乱しているんだ、車を出すから行けたら行ってくれないか!」ともはや大騒ぎだ。エラいことだ。
 その三年前まで私はこの工場を含めた部門全部の広報担当をやっていたから、担当者にその場から電話を入れると、消防、警察だけじゃなくて、マスコミがどっと入ってきていて、今それを仕切れる人間が現場にいないので、工場の事務所の中にマスコミがてんで勝手に入り込んでいて、ぐちゃぐちゃになっているという。一瞬嫌な胸騒ぎがよぎったけれど、自分の「ぬくぬく」を守ろうかなぁという思いと、訳知りの自分なら役に立てるかもしれないという思いが頭をもたげてきて、それじゃというので取るものも取りあえず、その場にあったヘルメットだけを借りて、自分の事務所にも帰らず、そのまま車に乗って修繕工場へ直行した。
 高速に乗ると目線が高くなって視界が開けると、修繕工場の方にヘリが数機低く飛んでいて、その中心から黒い煙が立ち上っている。少なくともまだ収拾はついていない。
 工場に到着すると、日頃は敷地の中に歩いている人影なんてそれほど見ないけれど、あちこちで鉄板をひっくり返す音や、叩く音、なんだ知らないけれど、「シュー」という何かの音くらいなのに、事務所の扉という扉が始終パタンパタンと開け閉めされて、見慣れぬ風体の人たちが、テレビカメラを肩にしたり、カメラを肩からぶら下げたりした状態で出入りをし、見慣れないほどの数の車に警備員が置き場を指示している。
 そのまま事務所に入っていくと、顔見知りの先輩たちが焦燥した顔つきで私を見る。かなり困っている顔つきだ。そこへ庶務というセクションの先輩が三階の大会議室を開けることができるから、いったんマスコミをそこへ誘導してほしい、そうしないと幹部の打ち合わせ指揮命令伝達ができないと困惑している。
 そこで私が大きな声を出して「クラブの幹事さんはどこの社ですかぁ〜!」と怒鳴る。こんな時はばらばらに対応しても統制がとれない。そういう点だけでは日本の記者クラブというのは便利なのだ。多分管轄の警察の記者クラブだったのだろうけれど、幹事社を捕まえることができて、双方にとってやりにくいから三階の会議室に一度動いてほしいと伝える。その時点では現場はそう簡単な事故ではないことが明確だった。ドックに入った船の一番底のデッキ、そしてその下のビルジと呼ばれる、長年溜まる廃油やゴミの始末に何人か入っていて、工事準備のための作業が始まったところで、突然爆発したということで、人はあがってきていないし、機関場の中は炎上しているということだった。
 そこから私が家に帰ることができたのは55時間後くらいのことだった。慌てて出てきたので、ヘリンボーンのスーツだけ。マフラーもコートもなく、こんな季節にもかかわらず、なぜが降りつづける霧雨の中、黙々と駅に向かって暗闇の中を帰る心は真っ暗で、全く寝ていないんだから帰りの電車の中で眠りこけても良いはずだったのに、まんじりともせず、疲れ切って帰ってきたことだけを覚えている。あれから28年経った。再来年にはもう30年になると思うと、ずいぶん生きてきたんだなぁという思いと、あっという間だなぁという思いが錯綜する。
 12名もの犠牲者が出てしまった事故は、そう簡単には忘れられない。