ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

本物志向

 高校の同級生で、若いときから本物しか選択しない、というよりもそんな若いときから本物が見分けられる才能を持った男がいた。高校時代にもうすでに絶対音感を持っていて、当時流行し始めたギターのチューニングをなんの助けも借りずにやってのけた。今だったらデジタルのチューナーがあって、それぞれがそれぞれでデジタル・チューナーで調弦したら即一発で音が合っている。かつてはそれをギター用の笛を吹くタイプの調弦をしたり、キーボードに合わせたり、挙げ句に全員で合わせたりしたものだ。だから、アマチュアのバンドやグループで全員のチューニングが合ってない、なんてことは日常茶飯事だった。
 彼とは結構仲が良くて、というよりは入学式の日に教室でたまたま隣り合わせに座ったら、彼が手元にうちの親父が勤めている会社の手帳を取り出したのを見て、なんでそれを持っているの?と聞いたらなんと彼の親父も同じ会社のつとめで、うちに帰ってうちの親父に聴いたら「そんな名前の人はいるなぁ、分野は違うけど」というので驚いた。それからはなんと毎年組替えがあるのに、とうとう三年間彼とは同じクラスだった。三年間同じクラスだったというのは彼だけだったかもしれない。
 当時彼は流行始めたビートルズで初めてその分野に目覚めた私なんかと違って、その前からElvisはキングだ!と認識していた。挙げ句にポール・ヴェルレーヌ詩を使って(もちろん誰かの日本語訳だけれど)オリジナルの曲を作ったりして、学年の中では一種の文化人扱いをされていた。昨年の同期会でもその彼の歌を記憶しているという奴に遭遇したくらいだった。(あ、多分あの連中からはもう私に声はかかりそうもないなぁ。)。高校生の時に、明治学院大の文化祭にフォークのグループが出ているからと聞きに行ったことがある。彼はそれを見ていて、ぽつっと「ベースの三弦が1/3音狂っている」といった。今から考えてみると、その手の人にとっては大層気持ち悪い音に聞こえていたのだろうと思う。
 ところが彼はそっちばかりではなくて、高鉄棒を得意としていた。学校には昔から低鉄棒だけじゃなくて高鉄棒があった。彼はそこで大車輪をして見せたりしていたのだ。なんでそんなことを彼がやってのけられたのかというと、彼の家には庭に体操競技で使うような高鉄棒が設置されていて驚いた。普通の家にそんなものがあるのは初めて見た。ワイアーで張ってあった。今だったら彼の家の庭に本格的なサーカスの空中ブランコがあっても驚かないかもしれない。それくらい驚いた。
 体育の教師というのは通常校内の風紀担当をしていたりするのが戦後の匂いがまだする高校では当たり前だった。体育の教師のベテランの中に岸野という教師がいて、これが毎朝入り口の横にある体育教師の控え室の窓を開け広げて、見張っている。制帽をかぶってこない生徒がいると呼びつけて、小言を言う。だから、髪の形にこだわっているようなちょっとその気になっているような連中はその前に教室にいる仲間から学帽を投げてもらって載っけたり、ぺったんこの鞄からこれまたぺったんこな奴を取り出して載せたりしていた。
 当時から反体制を気取って高圧的な教師に楯を突いていた私はこの岸野を当面の反動勢力として捉えていた。生徒会の会長になるには人望が足りなかった(いつもチャラチャラしていたからなぁ)私は、生徒会議長の席を狙って立候補した。見事当選して、全校生徒が集まる生徒総会で制服廃止提案が出された時に、風紀担当の岸野が一方的に「おまえたちはまだわかっていない」的な発言をした。私は彼を制し「議長が許可しない発言は公的なものとは認められない」といった。生徒からは喝采を受けたけれど、多分彼はこのときに相当頭にきたんだろう。その後、個別に「英語ばっかりに手間をかけているみたいだが、他もやらんといかんのじゃないのか?」と皮肉っぽくいった。その前の学期の生物の授業で教師が気に入らないからと試験であからさまに手を抜いたからだ。
 それだけではなくて、彼はとうとう私に仕返しをした。
 体育の授業は隣のクラスと合同で、男子と女子を別々に行われていた。その日の体育の授業の終わり頃になって男子も女子の高鉄棒の砂場に集められ、なんだろうと思っていたら、岸野が高鉄棒を得意とする彼に演技をして見せろといった。いやぁな予感がした。高校三年といったら、もう当然の如く、男子は女子を、女子は男子をかなり意識する。その前で、彼はどう思ったか知らないけれど、悠然といつものように蹴上がりからスウィングして何かをやり、最後にぐるんぐるんと大車輪をして見せた。当然「お〜!」と声が上がる。そして岸野は、低鉄棒でも蹴上がりや逆上がりすら未だにできない私を指名してぶら下がったまま、懸垂すらできずにもぞもぞする私を女子の前に晒し者にした。彼はあれで溜飲を下げたのだろう。賢明な(笑)私はそんな奴を相手としなかった。
 さて、彼の本物志向はそんなものでは終わらない。高校を卒業してからだったか、彼と横浜の某所にあったハンバーグ屋にわざわざ出かけたときのことだ。その店はかなり名前が売れていた。にもかかわらず、ようやく料理が出てきて、彼は一口食べるなり「不味い、出よう!」といって本当に出て行ったのだ。これには驚いた。まだ二十歳になるかどうかというガキが出て行ってしまったのだ。もちろん勘定を済ませて私も出たのだけれど、あっけにとられた。私は今でも不味い、価格にあわない、と思っても最後まで食べてしまう。そんなとき、必ず毅然とした彼を思い出す。情けない。
 数年経って彼を実家に訪ねたときに、話が一段落したら彼がコーヒーを飲みに行こうよという。良いともというと、なんと彼の車で国道の246沿いに当時はやっていた「ロッシュ」という、今でいえばファミレスのような店だけれど、当時はおしゃれ最前線だった店に行く。次に逢ったときは青山の「ココパームス」という店にチョコレートパイを食べに行った。うちのチョコレートパイは今でもここのスタイルだ。
 今や乃木坂といったらチャラチャラした女の子たちが出てくるのが当然だろうが、かつては乃木神社くらいしかなくて、六本木から青山へ抜ける道が暗く、ステーキ屋とウェディング・ドレス屋くらいしか記憶にない。そこに「カフェ・グレコ」という珈琲屋さんがあった。4年ほど前に閉店してしまった。彼はそこの常連というよりも、店主の方と昵懇になっていたらしい。わざわざここへコーヒーを飲みに行こうといってやっぱり車で連れて行かれたことがある。そこでコーヒーのドリップについてうんちくを聞いた。この店は一時期ドリップのコーヒーセットを贈答用に売り出してずいぶん売れていた記憶がある。うちでもある時期、これでコーヒーを入れていた。考えてみれば今のネスカフェ・カートリッジの原型みたいなもので、なんだか洒落たものをもらったような気がしたし、かなり先駆的だった。
 その後彼は絶対音感を生かしてピアノの調律を生業としていたこともあるそうだけれど、一時期は青山にプロ用の録音スタジオを持っていたそうで、数年前にメールをやりとりしたときには、その時はプロの音源のデジタル処理を生業にしているといっていた。あぁ、やっぱり今でも本物志向なんだなぁとそのさすがの人生に驚嘆した。ここのところ連絡がないけれど、どうしているんだろう。