ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

清水

 久しぶりに静岡へ行った。
 きっかけはFBで知ったのだけれど、静岡駅前の松坂屋デパート(まだ生き残っていたのか!)で、「静岡人」というグッズを売っているという。そこで「やっぱ清水がいいや」という文字を書いたキーホルダーを売っていると知ったのだ。たいしたキーホルダーではないのだけれど、なにしろこの文字がいい。意味がいい。
 清水は今では静岡市の中に組み入れられてしまって、静岡市清水区になってしまっている。冗談じゃない。清水は清水であって、静岡じゃないんだ!というのが大合併以降の清水市民の感情なのだ。あの「大合併」はとにかくとんでもないことをしでかしている。何が政令都市だよ。バカみたいに広い地域をひとつの自治体なんぞにしてしまいやがって、「都市」が仰天するようなところまで一つにしてしまった。清水区なんぞ、由比や蒲原まで入っている。最初聞いたときは驚いてしまって、コーヒーを吹き出すくらいだった!そんなことしないけど。
 清水の学校がすべてといって良いくらい「静岡市立清水なんとか学校」になってしまっている。そんな学校名じゃなかったのにね。
 で、そのグッズが欲しかった。この歳になってまさかこんな行動に出るとは。
 今、東海道線は上野東京間が専用線が引かれたものだから、高崎線からそのまま直接東海道線に入ってくる。朝、上野発06:38の小金井発平塚行きに乗った。驚くほど混んでいる。こんな時間なのに。生まれて初めて東海道線グリーン車に乗った。なぜか。トイレが心配だったからだ。歳は取りたくない!平塚で降りて次に来る電車に乗れば良いやと思っていたら、終点の平塚では乗り継ぎホームには入らないというので、ひとつ手前の茅ヶ崎で降りて後続の小田原行きに乗り継ぐ。
 上野から熱海まではグリーン券が980円でホームで買えて、スイカに情報が書き込まれる。それでグリーン車に座ったら、上にあるセンサーにそのスイカをかざすと赤いパイロットランプが緑になる。次の電車に乗り継ぐときには降りるときにもう一回センサーにかざして、パイロットランプが赤になるのを確認する必要がある。それだったら次の電車でまたそれをかざすと有効になる。多分、東京始発に乗れば良かったんだと気がついたのは随分後になってからで、その時は朝早いから大丈夫だと思っていた自分の社会性のなさに、埋没してしまいそうだった。
 終点の小田原で降りると08:14で、乗り継ぐと熱海止まり。これにはグリーン車はついていたようだけれど、たどり着かなかった。とりあえず熱海まで行けば何かあるだろうと思って乗った。驚くことに何人もの高齢男女が山に行く格好で乗っている。高齢者の遭難が話題になるのが良くわかる光景だ。この連中が一斉に降りていったのが湯河原だったのはいったい何だろう。しかも、いかにも日帰りの格好の人ばかりではなくて、かなり大きなザックをしょっている人たちもいる。如何にもどこかで泊まる装備だ。まるで高尾山の駅の朝、という雰囲気だ。
 熱海では折り返しの沼津行きというのが入ってきたのだけれど、その後に島田行きが来ることがわかっていたので、それに乗る。間に饂飩でもたぐろうと思ったらこのホームにはそれがない。隣のホームにまで食べに行くのもおっくうだからとベンチで待つ。島田行きは始発で、ガラガラ。寒いくらいだ。熱海と次の函南の間が丹那トンネルで、子どもの頃は清水トンネルに次ぐ日本第2位の長さで、完成に相当の苦労があったんだと聞かされていたから、感慨も深かったという記憶があるが、今じゃたった7kmなんてあっという間の出来事くらいにしか感じない。ところで来宮という駅は昔から伊東線の駅だったのかなぁ。東海道線は止まらないよねぇ。
 蒲原あたりからそろそろトイレが心配になってきたんだけれど(トホホ・・・)それも我慢して、とうとう静岡に到着する。三島から先はJR東海の領分で、なんとSUICAが通用しない。いい加減、東日本と東海は仲直りをして貰いたい!客の便利さを優先しろと強く主張したい!精算機で支払うことができず、改札横で「これで乗ってきた」とSUICAを出す。すると若い駅員がこれをセンサーにかざす。乗った駅名が表示されるが、彼はこれを読めない。しかも手元の運賃表には表記されていない。ごそごそしている。間にベテランが「何時頃(に)出てきた(ん)ですか?」と静岡弁でお愛想を言う。これが良い!こういう時静岡弁は「てにをは」を飲み込んでしまう。
 今の静岡駅の北口は地下通路からそのまま松坂屋の地下へ入ることができる。食品売り場には東京のデパ地下と同じような店が並んでいて、なにも面白くない。
 それを無視して一階へ上がると!ありました!女性がふたり対応しています。「やっぱ清水がいいや」と書いたものに手が伸びます。この場合「いいや」に特徴がございます。東京弁でいう「いいや」じゃないんです。正確にいうと「いいやぁぁぁ」で「ぁぁぁ」が尻上がりになります。「良いなぁぁぁ!」なんですね。あんまり真剣に如何に清水が懐かしいのか、という話をしていると涙声になりそうで、そそくさと切り上げ、新静岡に向かいます。ところが人の流れに乗って(それほどいるわけじゃないですが)歩いて行くとあっという間に2011年にできたCenovaという施設に到着。これはショッピングモールらしいのだけれど、ここの奥一階が新静岡駅になっている。昔は新静岡センターといった。それにしてもこんなに近いんだっけ?昔はもっと歩いたような気がするのはなんでなんだろうなぁ。
 とりあえず桜橋駅まで280円の切符を購入。しかし、4つ目の柚木の駅でプラットフォームに降りてみる。中学一年生の一年間だけ通っていた東海大学第一中学校というのがこの駅にあった。裏の「ひょっこりひょうたん島」の様な格好をした山(谷津山古墳)と中学の間に自動車運転免許試験場があった、というか今もある。そして東海短大が中学のあとにできて今もある。中学はどうしたのかというと、東海工業高校、東海第一高校と一緒になって、東海大学付属静岡翔洋高等学校・中等部になっているらしい。この中学はサッカーで全国優勝した(1991年全日本ユース)こともあって、S・PALSの澤登はここの卒業生だと聞いているけれど、私が在学していた頃はグランドは常に野球部が使っていて、サッカー部の記憶がない。それに団塊の世代だというのに、この歳のこの中学は生徒の数がそんなにいたような記憶がない。確かに通常の学年よりもたくさん取ったらしくて、裏の自動車学校との間にあった今にも崩れそうな木造の校舎まで使っていた記憶がある。
 当時の柚木駅はホームがひとつあるだけ。両側に上下線が別れてくる島の駅だった。プラットホームも今みたいに高くなくて、中学生達は電車を待つ間、平気でホームから線路に降りたりしていて、今だったら大騒ぎになっていただろう。次の長沼駅との間、北西側には静岡縣護國神社と旧体漢字で書かれた神社があって、何かといっては行った。多分美術の時間の写生なんてのはここだった。この奥にクレー射撃場があったのを覚えている。クレーのかけらを拾ってきてはその辺のコンクリにぶつけて割れるのを楽しんでいた。そこまでの間とか、長沼の次の古庄の駅までの左側はほとんどが田んぼだった。長沼から通ってきていた級友の家に荷物を置いて、裾をまくり、腕もまくって、良くこの田んぼの畦で小鮒を捕まえた。中学生といったってまだまだ子どもだ。その小さな鮒を空き缶の中に入れ、抱えてうちに帰ってきて、小さな池に放したことは今でも覚えている。静鉄は「運動場前」といった駅が「県総合運動場前」という名前になり、そのひとつ清水よりに「県立美術館前」という駅ができている。草薙の次の「有度学校前」は「御門台」に名前が変わったのはかなり昔でそれは覚えている。有度小学校は電車の駅名にまでなっていて羨ましいなぁと思っていた。
 桜橋の駅に降り立って、改めて自分の記憶と異なっているのはかつては「島式」ホームだったのが、新静岡行きホームを新静岡よりに造って別ホームになっていること。かつては橋の上に駅舎があったのが、南側にできた南幹線道路と線路の間のほの暗い日陰に車も入れない細い自転車と歩行者用の通路で出入りするようになっている。この道路は多分部分的に、1970年代にできていたのではないだろうか。この近所にあったスポーツ用品店でスキーの板を買った記憶がある。実は清水はかつて、ヤマハが浜松でスキー板を造り出すまでは静岡県のスキー界を引っ張る存在だったのだ。(つまりそれまでの静岡県勢はスキーでは大したことがなかったということだ。)
 中学へ通っていた一年間、私はこの駅まで自転車でやってきて、今の道路に立っていた「自転車・小荷物預かり所」へ自転車を預け、ここから柚木まで電車に乗って通っていた。たしか毎月300円を払っていたのではないだろうか。同じように静岡の女子校に通っていた姉たちはどうやって通っていたのだろうか。
 坂を下ってサッカーで有名だった昔の清水商業高校の前に来ると驚くほど格好良い校舎がどかぁ〜んと建っている。今は静岡市立清水桜丘高校という名前になっている。ここには昔から50mプールがあって、夏の終わりに市民大会の水泳大会があって、小六の時に出たことがある。まったく得点には貢献しなかったのだけれど、一年下の生徒の大活躍で岡小学校は優勝した。
 この界隈の地図を見ると、東側に幹線が直角に交差するのだけれど、その西側に弓なりになっている細い道がある。この細い路の西側は全部田んぼだった。つまりこの路が畦だった。この路と幹線の間はお屋敷町だった。高い板塀で囲ってあったりして、このあたりから通ってきている同級生は、当時から良いものを着ていたのを覚えている。しかし、肝心な彼女の名前を覚えていない。もう少し南西の一年半ほど住んでいた家の跡を見に行った。一軒分の敷地が明らかに二分されて、瀟洒な家が建っていた。角に建っていた大金持ちの家はより一層お屋敷風になっていた。向かいの家だけはブロック塀がそのままだった。そのまんまだったのは、そのブロック塀だけだった。日本の文化そのものだ。
 昔は幹線にバスが走っていたのだけれど、今はそれもない。ここらあたりの人たちはどうやって清水のダウンタウンに出て行くのだろう。私はまた同じ路を通って桜橋の駅へ戻り、入江岡の次の終点、新清水までまた静鉄で出た。表から出ずに、裏から出て、東海道線の踏切を渡り、駅前銀座をずんずんと進み、中華の夜来香へ。清水へ来たからには、ここの五目焼きそばを食べなくちゃ帰れない。このお店がここに引っ越してくる前、清水銀座の巴川駐車場の傍にあった頃から美味しくて食べにいっていた。三年前に伊豆の土肥に行ったときにフェリーで遊びに行って、尋ねたときに、代替わりしていることに気づき、伺ったら、おじさんは直前に他界されたそうで、おばさんは足腰が弱っているということだったが、今は歩行器を使いながら、デイ・サービスに通っておられるそうだ。
 駅前銀座も随分ガラガラで、こんなに長い商店街だったのかと端まで見通せるくらいに人がいない。踏切へいったん戻って傍に昔からあるソフトクリームのお店で食べた。3-4年で50円値上がっていて、なんだか水っぽくなったような気がする。
 清水の駅へ出て、すっかり居眠りしながら電車を乗り継いで東京へ向かう。
 13,225歩