ほぼ足りてまだ欲 その先

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昼から

 へぇ、(三代目)三木助のかみさんってなぁ33歳も離れていたんだってさ!といったら「若いの?」っていう。上ってこたぁ、ねぇだろう!安藤鶴夫の「三木助歳時記」には33歳の年の差だと書いてあるけれど、ウィッキペディアだと25歳と書いてある。踊りの師匠だった頃の弟子のひとりだったんだそうだ。三木助が死んだのは58歳だってことになっているから、安鄕を信用するなら、その時のかみさんはまだ35歳だってことだ。
 で、その息子が四代目の三木助を継いだ。彼は随分と才能を感じる噺家だった。彼は下から立教だった。噺家としての修業らしいものをしていない。端っから恵まれていた。それは師匠に当たる柳家小さんは父親、三代目三木助のポン友だったわけで、名前だって、小さんの本名盛夫のまんまだ。
 紆余曲折あって、2001年1月3日に奴は首をくくって自死してしまうわけだけれど、その前に私は彼の噺をホールで聞いたことがある。それがいつの頃のことかわからないのだけれど、大病を患って復活してきてからのことで、それは銀座のライオンビヤホールの上での「ビヤホール名人会」の公開録音だった。その時の司会はTBSラジオのアナウンサー、鈴木治彦だったから彼が担当していた1981年4月-1985年3月のうちのいずれか、ということになるんだけれど、この辺の時系列がどうもあわないような気がする。というのは彼が胃を取った手術をしたのは1993年のはずだし、彼の生活がおかしな具合になってきちゃったのは私が日本にいなかった頃の頃だ。ひょっとすると彼の最後を聴いたのは1999年から彼が自死するまでの間だったのかも知れない。しかしそうだとすると、ビヤホール名人会じゃなかったのだろうかとも思う。
 今年五代目の桂三木助を襲名したのは三代目三木助の長女で、四代目三木助の姉にあたる小林茂子の息子。十一代目の金原亭馬生の弟子となって二つ目から桂三木男を名乗り、今年から三木助。一応今でも馬生一門の会には出てくるが、毎年2月の国立演芸場での「鹿芝居」には出たことがない。もともと先代も、先々代も古今亭系ではないから、多分今の馬生が預かったということなんだろう。二つ目の頃からおふくろの張り切りで、独演会を打ったりしていたことは聞いたことがある。可哀想なことをいうけれど、おじさんの四代目とはまだまだ比較にならない。化けるとしたら彼が本当の壁にぶつかってからだろう。