ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

教育環境

 泥臭い教育環境に育ったものと、都会の洗練されたというか、金のかかる教育環境に育ったものとには自ずと差が出るという話。
 私は中学に進学するときに、全く塾というものには縁がなかった。なぜかというと周囲にそういう機関がなかったからだ。その時に暮らしていた地元の小学生にとって塾に行って受験するという環境がなかった。隣の県庁所在地には私立の中学や、国立大の附属中学というのが存在していたけれど、女子は別として、普通は小学校の隣の公立中学にそのまま進学する。だから、「受験」という概念がなかった。かつて小学校の教員を数年したことがある母親が学校の先生に頼んだらしく、その先生の家に行ってドリルをやって採点して貰って帰る、ということを数ヶ月やったような記憶がある。それがどれほど効果があったのか、なかったのか、その国立大付属を受験して落ちた。そこには附属の小学校もあったらしく、利発そうな子どもたちと一緒だった記憶がある。結局、当時では唯一の私立の中学校に行った。
 その頃東京の子どもたちで私立の中学校へ進学をしようとしている子どもたちは駿台四谷分校と大塚予備校で開かれていた「日曜教室」へ行っていたという。わがつれあいも、一学年上の大学の先輩もそういっている。模試のような試験を受けて自分が受けられる学校を把握していたそうだ。行ったことがないから、良く知らない。
 もう既にここで大きな差が生じていたんじゃないかと思う。受験戦争に取り組む姿勢が違う。私たちは日が暮れるまでドッヂボールやめちゃぶつけに熱中し、田んぼの畦で遊んでいた。なんもしらんと。それは親の考え方だったのだろうか。地域の環境によるものだったのだろうか。
 つれあいはなんせ早生まれで身体も小さく、身体も弱かったから、親が早いうちに競争のない環境に置きたいと思っていたんだろうという。彼女はそのままエスカレーターに乗って短大まで行った。いや、実は他大を受験したんだそうだ。成功しなかったらしい。
 一方「ぼぉ〜」ッと育った私は、中学二年で転校してから、高校まで公立だった。高校も第一志望は落っこちた。中学で落ちて高校でも落ちたわけだが、それで終わらなかった。大学も一年目は全滅で、もうここまで来れば、自分の居場所がわかってきた。二年目は多分二勝三敗だった。背水の陣で受験しまくった。
 実は中学で転校したときに、私立を転入受験した。全く知らない数学の試験が出ていた。つまり、授業の進度が全然違っていたということだ。地方と都会の違い、ということだったのか。
 こうして半世紀以上昔の話を反芻していると、こんな狭い国だというのに、全然違う環境に暮らしていたことが良くわかる。今ではもっともっと環境の違いが出てきているんだろう。そしてそれが昔に比べたらもっともっと早いうちに鮮明になる。目の前に突きつけられてしまう。それがわからなかっただけ、「ぼぉ〜」ッと暮らすことができたのが、むしろ幸せだったのかも知れない。