ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

撤去

「1990年5月から永きにわたり皆様にご愛顧いただきました、阪急三番街北館地下2階の【 水のサーカス「アクアマジック」】は、来る6月4日(日)をもちまして展示を終了」
 これは昨年の阪急電鉄の発表文。今頃発見した。阪急は結構締まり屋さんなので、こういう設備(デザインした会社はartだといっているが)はなかなか置き換えることをしないわけで、この噴水は27年間このまま飛び続けたということになる。撤去されてからもう半年以上になったところで見つけたのはちょっと寂しいものがある。三番街の大改修が実施されたとき、まとめて阪急から読売広告(よみこう)に発注され、それが店舗デザインをする船場という会社に発注され、かれらがまとめたはず。当時の私たちのことをこれで想い出した。
 私たちも当時バブルがはじけ、やることがなくなって、とにかくなんでも良いから売るものを探してこい、ということになった。わたし自身は全然違う分野から中国の同業者に仕事を探してつなぎ混むような企画を立てていた。
 仲間のひとりがアメリカでこんなwater artをやっているのがいるといって、模型のようなユニットを買ってきた。いくらしたのか忘れたけれど、そのデザイン事務所ととりあえず日本の代理店を介して提携した。そのユニットを展示会に持ち込んで、ぴゅんぴゅんと飛ばした。それを見て、企画会社が引き合ってきた。大阪にプレゼンに行った。最終相手はショッピング・ターミナルの経営者。見積もったら案の定「そんなには出せない」という。じゃ、なかったことにしてと帰りかかったら、企画会社がとりあえず事務所に寄ってくれと云って話し合いになった。こっちとしてもどこかに採用されたという実績が欲しいということになった。となれば、とりあえず赤字でも良いから取るしかないと。
 実際に作業をしてくれる下請けを探した。水道屋さんに毛が生えたような配管屋さんで、噴水をやりたいと志向していた。あとでわかったのだけれど、経営者は知る人は知っている臑に傷を持つ人だったらしい。良くわからない。
 デザインをした会社はアメリカのカリフォルニアで、超有名なアミューズメント施設の水部門を担当していた技術者が独立した連中で、当時はまだまだベンチャーといっても良いような立場だった。日本は良いマーケットだと思っていたようだけれど、実際にはすでに、バブルもはじけていて、時既に遅しだった。今や彼らは飛ぶ鳥を落とす勢いのwater artの会社となっている。この分野の人なら知らない人は多分いないだろう。
 彼らデザイン会社は私たちが配管屋的な見方をすることに気がついていたようで、現場の作業者こそ楽しい奴で、私たちは彼とは巧くやったけれど、主たるふたりの経営者の片方の技術者は沽券にこだわった。米国から送ってきたクレートを開梱して、中身を点検しようと、関係者が集まったときに、既に開いて、種類別に部品を並べてあった。それを見た時、彼はイニシアティブをとられていると、非常に不機嫌になった。われわれにしてみると、時間が勿体ないから、点検だけで済むように準備をしたつもりだった。しかし、かれは、ちょっとした特許部分をわれわれが盗み取ろうとした、というようにとったのではないかと、あとになって思いついた。彼はその場で「帰る」といいだした。契約は破棄だという。これをどうやってなだめたのか、記憶にない。現場の兄ちゃんは陽気な奴で、こつこつとくみ上げた。
 次にやってきた難関は下請けの配管屋だ。先月までにかかった費用をすぐ払え、払わないならポンプを持っていっちゃうぞ、と脅してきた。契約上は完工後月末締めかなんかだったと思う。資金繰りがどうにかなると思ったけれど、やや危なくなったのかも知れない。うちの会社の外注部門に頼みに行け、といったが、おっかないお兄さんが動くことだってあるぜと脅かされた。
 現場任せにできない状況だったから、わたしも何度か足を運んで現場に張り付いた。長靴と、作業服で池に入った。改装が終わってオープンする前日に客先の幹部の内見があった。実はその時点では完全に動いておらず、えらい人たちが来たときだけマニュアルで、動かした。当然その日は徹夜で、オープンの日の午前6時にようやく完成した。当時、東京から大阪へ向かう新幹線の中では気が重くて胃がきりきりし、帰りはとりあえずここまで来たと、旨い駅弁を買って食いながら夜遅く帰宅した。結果的には、当初の目論見を挽回することができず、赤字プロジェクトと終わった。半年経たないうちにその部をクビになって出向になった。わたしの後釜は商売をしたことのない、しかしボスのお気に入りだった。
 あれからもう27年も経ったけれど、想い出してしまった。人生は「ヨイショ」だって。