ほぼ足りてまだ欲 その先

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噺塚

 戦争中、様々なことが「怪しからん」のひとことでおおっぴらにできなくなった。今考えてみるとバカみたいな話なんだけれど、その代表選手は英語は敵性語だからといって巷での使用を大いに制限させたというくだらない風潮だろう。何しろ野球の「ストライク」を「良し!」と言い換えさせたってんだから、バカ丸出しだ。日本人の英語苦手意識はこのあたりに病巣がありそうな気がするね。
 ところで、昭和16年10月、廓噺や間男の噺などを中心とした53演目が禁止だってことになって今の田原町の交差点から小さなガソリン・スタンドの角を入ったところにある長瀧山本法寺に噺塚を建てて、台本なんかを埋めたんだといわれている。まぁ、まるまる廓の噺だってのもあるし、これくらい良いだろうというような話も中にはある。
 で、ここのお寺さんの門の両側の壁には寄席に絡む各種の団体、組織、寄席の名前、噺家の名前がずらっと並んでいる。前にもここには通りかかったことが何回かある。前は噺家の名前ばっかり見ていた。会社や団体の名前はどういう理由で並んでいるんだろう。スポンサーみたいだ。日本放送協会落語協会、芸術協会、講談組合、ラジオ東京、日本文化放送ニッポン放送落語研究会鈴本演芸場人形町末広、新宿末廣亭、神田立花演芸場、本牧亭池袋演芸場麻布十番倶楽部、浅草末廣亭、川崎演芸場なんて名前がずらり。戦後の昭和22年に軍国主義的、暴力的、荒唐無稽にすぎるなどと見なされた27演目の上演を自粛したってのもあるらしい。それはいったいどの噺なんだろう。
 日本文化放送ってのが今の文化放送の前身。なにしろカトリックの布教を目的に聖パウロ修道会が1951年に設立した「財団法人日本文化放送協会」ですから、今の放送から考えたら嘘みたいな話。「開局の際にNHKからレッドパージされた職員を大量採用した(ウィッキペディア)」というくらいだから、いろいろ揉めに揉めたらしくて、紆余曲折。ようやく開局したのは1952年3月31日。講和条約のあの年だ。旺文社提供『大学受験ラジオ講座』はこの時からの放送だったらしい。
 私がこの放送を知ったのは、今はなき従兄弟が浪人をしてうちに居候していた時に彼が聴いていて気がついた。その時、私は中学三年でちょうど高校受験だった。多分その頃団塊の世代に焦点を合わせたのか、NHKが「中学生の勉強室」なんてラジオ番組があって、彼が聴いている『大学受験ラジオ講座』に対抗してこれを聴いていた。
 ところが、この「中学生の勉強室」で国語をやっていた小田島哲哉という先生が高校へ行ってみると、その学校にいて、どうやらNHKに継続して出ていることを鼻にかけていそうな教師で、実に気に入らなかった。その気にいらなさの決定打になったのが、冬休みに彼が出した「百人一首」の宿題。全部を冬休み中に覚えてこいというのだ。で、それを休み明けに学年全員を行動に座らせて、その試験をやった。何が気に入らないといって、冬休みというのは正月休みで、世の中はあっちもこっちもワンワンとしている浮き足だった休みにもかかわらず、百もの和歌を覚えてこいって態度が気に入らねぇ。楽しみながらならばまだしも、無条件で覚えてこいってのがいやだ。案の定合格点を取れず、百人一首を三回、まるで写経のように書いてこい、という宿題になった。いやな奴だ。
 さて、大学受験になって、やっぱりこの「大学受験ラジオ講座」を聴くようになった。ちゃんとやったのかなぁ。浪人しても旺文社模試とか、予備校の模試とかでは、相変わらず世界史が足を引っ張っていた。集中してやれば良いのに、自分が得意な英語と国語ばかりにかまけて三科目合計点は上がらない。やってる振りばっかりの人生はこの時に始まっていたんだなぁ。