ほぼ足りてまだ欲 その先

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宗谷

 このGW中は船の科学館が展示している初代南極観測支援船「宗谷」に行くと先着200名様にプレゼント!と書かれているのを発見。行きたいなぁと思っていたのだけれど、なかなか睡眠時間との兼ね合いが上手くいかなくて、見送っていた。というのはあそこへ行く交通機関は「ゆりかもめ」で、お台場へ遊びに行く人たちと全く同じ。それでなくてもこの時期様々な催しで人を集めようとするイベントが目白押しだから、昼過ぎから出かけるなんてことになると、無茶混み必至。その証拠に一昨日にゆりかもめの混雑状況なるウェブサイトを見つけたら「無茶混み」と出ていた。しかし、お知り合いの方が行ってきたと写真をアップされていたので、今朝9時に目が覚めたのでそのままの勢いで飛び出した。宗谷の公開は朝10時からと書いてある。ちょうど良いじゃん。
 都営地下鉄で新橋でおりようとしたところでお腹が減ったことに気がつく。何しろ朝ご飯を午前5時に済ましたから。新橋の駅の地下でどこか開いていないものかと思ったらうどん屋が開いている。取るものも取りあえず入ってみると、一番奥に祭半纏の一団。鉄砲洲?と思ったら襟に新橋三丁目と染めてある。烏森神社のお祭りだ。竹輪の天麩羅を入れて450円。腰のある讃岐うどんなのかと思ったらもうズルズル。こちとら、病人じゃねぇんだ!
 さてゆりかもめ。案の定混んでいる。しかし、先に乗っている人が詰めない。ふと思った。日本も本当に西欧化してきたんだ。この雰囲気は豪州やNew Yorkの地下鉄の雰囲気にそっくり。触らないようにして詰めない。
 ところで、ゆりかもめってのはその持ち株会社の株主のうち東京都知事が85.12%の株を所有している。しかし、シルバーパスの対象じゃない。この辺の理屈がわからない。「お台場海浜公園」「台場」を過ぎるとがくんと人が減る。
 宗谷を見物するのはただ!ロハ!無料!入り口にお兄さんがいて、記念の品をくれる。ペーパークラフトとなんか。
 「宗谷」が接岸している場所が以前と全く違う。前は船の科学館の前に出船で右舷を接岸していた。「東京都が設置する「新客船ふ頭ターミナル」の工事に伴い」この場所に移され、昨年の4月から新規公開されたんだそうだ。これは多分客船ターミナルがオリンピックではじき出されるからなのではないだろうか。だから外板の見えるところはペンキを塗り直してある。喫水以下はそのまま。
 何しろ30年ほど前に一度来たのが最後だったからとても懐かしい。私は昭和31年の南極行きの為の大工事の完成披露で、浅野船渠でこれを見た。小学校3年生だった。オヤジが担当技師だったからだ。つたない文字で当時貰ったモノクロの絵はがきをアルバムに貼ってある。当時は大きな船だと思っていたのだけれど、30年前に見た時にはあまりにも小さいので驚いた。
 ブリッジに登るとそこに大ベテランの方がふたり、胸にIDカードをぶら下げて説明をされていた。第5次観測隊の時の乗り組みの方と、第11次の観測隊の方だそうだ。氷に閉ざされた約一週間の間に清水タンクの中の水が凍ったんだそうだ。そして氷の中に入るのだからとしてビルジキールがついていないものだから、暴風圏でのそのローリングは想像を超える角度だったそうだ。なにしろこの船は総トン数でも2,700噸、全長83mそこそこなんだから、木の葉のようなものだ。次の「ふじ」で全長100m。「宗谷」が氷に閉じ込められた教訓からお椀のような形状に設計されたものだから、暴風圏では実に良く揺れたと初代艦長だった本多敏治さんにお伺いしたことがある。本多さんは1966年に本を書いているそうだ。かつて本多さんがお持ちの8mmフィルムを見せて戴いたことがあるけれど、南極点まで飛んだそうで、極点を中心にみんなでぐるぐるっと回って「世界一周」をしているところを今でも覚えている。
 その「ふじ」はその後名古屋港ガーデン埠頭に係留されている。公開に当たってはIHIの知多だかで改造工事をした。仕事で名古屋に行ったときに中を見せて戴いた記憶がある。公開前には名古屋港管理事務所から何度も何度も電話を戴いて、相談に対応させて戴いた。その頃広報を担当していたからだ。一方で船の科学館の方とも連絡を取っていたのはこのせいだ。
 で、そんな仕事だったから、初代「しらせ」の竣工報道公開も担当した。雨の日だったことは忘れない。造船所の構内にある研修所の教室を説明場所に設定して部屋一杯の報道関係者に段取りを説明した記憶は今でも鮮明に残っている。フジテレビが突然船に仮置きしてある受話器から南極へ電話をして新艦長と越冬隊長の会話をとりたいと云ってきた。どうにかこうにか実行できたのだけれど、あの電話代は一体誰が払ったんだろうか。フジテレビが払ったとはとても思えないなぁ。当時フジテレビは女性の城ヶ崎祐子アナウンサーが来ていたことを覚えている。都立西高-東外大英米。この船は1995-98まで毎年3月にSydneyに帰ってくるのでその度にレセプションに出かけていった。その後私は退職してしまったので、二代目の現在の「しらせ」には全く接点がない。