ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

年寄り向けテレビ番組

 最近テレビで年寄り向けの番組がとても多いような気がしてきた。昨日も、昔はこういうことはどうだったのか番組があって、思わず見入ってしまったんだけれど、若い人たちが昔のことを知らないのは、当然といえば当然のことで、こんなことで、年寄りにおもねっているみたいで、なんだか、居心地は良くなかったよ。
 例えば、成田空港ができる前、海外へはどうやって行っていたのか?なんてことを街ゆく人たちに尋ねたりしてさ。答えた若い人が「船?」っていったってのを取り上げてあざ笑う、なんて趣向でね。
でも、おかげで昔のことをたくさん想い出すことができた。
 当時の羽田の国際線ターミナルには随分たくさんの想い出がある。平屋のようなターミナルだったけれど(実際は二階建て)、多分生まれて初めて入ったのは、小学生の時で、従兄の親戚のお爺さんがアメリカから帰ってくるのを迎えに行くついでに見物用の屋上に入ったんじゃないかと思う。ビートルズなんかが来日したときにファンがわんさかたかっていたあのバルコニーみたいなところだ。二回目は小六の時に、清水の小学校の日帰り修学旅行だった。
 実際に初めてあそこから飛行機に乗ったのは1970年8月のことで、JALDC-8だった。今は亡き幼友達が送りに来てくれたのを覚えている。なにしろ初めての飛行機、初めての外国行きだったから記憶は鮮明だ。正面にパタパタと表示が変わる案内板のところを入っていくと出国手続きだった。テレビの番組では手荷物検査があったといっていたんだけれど、その記憶はほとんどない。
 二度目は1972年12月でパスポートは一次パスポートだった。数年後、数字のパスポートをとったが転勤になって三度目はずっと先になった。
 その代わり、羽田の国際線ターミナルには仕事がらみで出迎えやら、見送りやらでしょっちゅうやってくることになった。日本語も英語もできないノルウェー人のお爺さんを迎えに来たら、全然出てこない。とうとう入管の方まで入っていって、その旨聞いたら「あぁ、あの爺さんだな、全然言葉が通じないんで、困ったんだけど、たった今出ていったよ」というので表に急いでまわった。しばらくしてキョロキョロしながら出てきたお爺さんを発見した。それでも言葉が通じなくて困った、なんてこともおかげで思いだした。
 船がハワイで故障して往生しているというので、部品を持ったノルウェー人を見送りに来たら、こいつがなんとパスポートを家においてきちゃって出国できず、この部品をもう一度持ち帰り、翌日出直してきた、なんてこともあったなぁ。
 当時の羽田はターミナルの前がドォ〜ンと駐車場で、この駐車場をなんで往復したことだろうか。
 1972年の旅行で知り合った米国人夫婦が、大阪で英語教師をしている娘に会いに来た帰りに羽田から帰国すると聞いて、ロビーで会えず、出国したと聞いて、有料で入ると、出国手続き済みの人たちのロビーが見えて、拘置所の接見室のように、穴の空いたアクリル板越しに話ができるところで、ようやく挨拶ができたことを思いだした。確かオキーフさんといって、オレゴンに住むという人だった。
 1979年12月にアメリカへ出かけたときは、もう成田空港から飛んだ。多分あれが初成田発だったのではないか。その時サッカーの奥寺を成田で見た記憶がある。同行した三人のうちのひとりにはご両親が見送りに来たことも覚えている。まだそんな時代だったのかなぁ。