ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

アントニン・レーモンド(Antonin Raymond)

  当時のオーストリア・ハンガリー帝国で生まれた建築家なんだけど、手近なところでは銀座の教文館のビルが彼の手になる。遅まきながら今頃知って驚いたのが、横浜の伊勢佐木町にある不二家の建物もまた彼の手になるものだというんだねぇ。子どもの頃この建物は米軍が接収していたと記憶している。モダンな建物なんだけれど、米軍のお偉い連中らしいのが足を組んで新聞を拡げていたのが下から見えた。本当に見えたのか、そういう思い込みをしていたのか知らないが、そんな建物だったのだ。まだあるのかなぁ。

f:id:nsw2072:20190131172018j:plain:w360:left
(今の不二家ビル)
 不二家のHPを見ると、不二家は藤井林右衛門という人が1910年(明治43年)に元町に開いたのが最初だと書いてある。あれま、オリジナリティは横浜だという。そして1922年(大正11年)に伊勢佐木町の店を開いたという。これは関東大震災の年だ。翌年銀座と伊勢佐木町の店を再開したんだそうだ。伊勢佐木町の建物が完成したのは1937年(昭和12年)。だからあの建物はまだ80数年だから大して古いわけじゃない。米軍接収については不二家HPにはなにも書かれていない。

 不二家が接収されていたのをなんで知っているのかといったら、向かいの野沢屋に行くのが楽しい終末だったからだが、どうやら野沢屋も接収されていたらしくて、1952年の占領解除から2階以上が接収解除されていたらしい。随分変なことをしていたものだと思うけれど、これはPXが残っていたんだろうか。1955年3月22日に最終的に全面解除されている。

f:id:nsw2072:20190131172134j:plain:w360:right
(元の野澤屋はJRAの場外馬券売り場になっている。)
 文献によると、不二家は戦後の日本で最初に開設された娯楽クラブで「横浜赤十字クラブ」と称したようだ。1945年12月に改修をして再開場したと記録があるらしい。こちらが全面的に接収解除されたのはどうやら1958年5月15日のようだから、私が幼心に野沢屋から出てきて見上げたのは、充分妥当だということになる。

 ちなみにルー・ゲーリック・スタジアムと呼ばれた横浜平和球場(今の横浜球場がある位置にあった。だからナイター設備がついていたのか。)もやっぱり接収されていたわけで、解除されたのは1952年4月8日とされている。