ほぼ足りてまだ欲 その先

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高級官僚

 各自治体の窓口にいる人たちは、同じ公務員で、いわゆる役人だけれど、政策立案にかかわっているわけではなくて、いうところのクラークなんだから、与えられた職務を頑ななまでに守っていればいいわけだから、クリエイティブネスなんて要らないし、フェアネスは必要だけれど、概ねどこの国でも、そんなに高等教育を必要とするわけではない。

 と、ここまで書いてきて、考えてしまうのが、この「高等教育」の定義なんだよねぇ。この国では大学教育を「高等教育」といっているかと思うんだけれど、実際にはこの上に、大学院というものがある。日本では正に「上」という感覚だけれど、これ、英語で言うと「post graduate」ですよね。いわゆる学部を卒業した後の教育という意味だ。この感覚が日本と外国とのあいだに齟齬を生んでいるような気がする。

 それは学部教育が何をしているのか、という点が違っていやしないのか、ということなんだけどね。例えば、介護の仕事を考えてみよう。北米や豪州ではいわゆる資格を持つ介護分野の人たちは、学部教育だけではなくて、その後の現場の経験、そしてその後の教育を非常に重要視している。そしてそういう経験、教育を経た人たちが政策立案等専門的なクリエイティブネスを必要とする職務に就いている。

 日本の高級官僚はどうかといったら、霞ヶ関にいる連中のほとんどは、いわゆる偏差値の高い大学の学部卒の連中ばっかりだ。下手に外国で教育を受けたり、現場経験を積んで帰ってきたりした人はその中で浮き上がってしまう。それは妙に頭が働くけれど、クリエイティブネスや、フェアネスという概念をこれっぽっちも突き詰める教育を受けたことがない連中の中にぽつねんと存在することになってしまうからだ。

 もう誰も覚えていないと思うけれど、厚生労働省の技官として米国から帰ってきて就任した宮本政於があんなに驚いていたのがそれを現している。もうとっくにみんな彼のことを忘れてしまった。

 多くの国の教育制度は、まだ十代の頃に、平均的な教育を終えて社会に出るのか、あるいは専門的な教育を受ける道を選ぶのか、決めなくてはならない節目が来てしまう。例えば豪州ではHSCという高校の卒業試験を終えたら、社会に出るのか、専門学校に行って手に職を付けるのか、大学へ行ってその先の専門性を追求していくのかの節目が来る。スイスだったら高校を卒業していわゆるクラーク仕事に就いていくのか、あるいはその先の高等教育を受けるのか、節目が来てしまう。早めにその先が見えてしまう。

 しかし、日本では、誰でもとはいわないが、経済的な問題はあるけれど、等しく「大学教育」を受けることができるように思える。が、実はその先については、入った大学で既に選択されてしまっている。いやいや、義務教育を終えて進んだ高校で既に選択は終わっているといって良い。

 だから、高級官僚になる人間はもう高校時代から選抜されているといっても良い。はっきりいってしまうと、のほほんとエリートだと思って育つ。知識は誰よりも優れていると自負して育つ。「選民」だと思って大人になる。しかし、官僚としてもっとも必要なクリエイティブネスがあるか、という点は誰もどこでもその観点で試されたことなんてない。そこにフェアネスも顧みられていないんだから、なにをか況んやなんである。
 哲学の必要性をないがしろにする政府におもねるのにはそんなものは要らないということだ。