ほぼ足りてまだ欲 その先

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揺らぐ

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真言宗豊山派 賢臺山 法乗院 深川 ゑんま堂 〒135-0033 東京都江東区深川2-16-3

父の看取り経験から、わたしは健康な時に書いた日付入りの意思など信じるな、と思うようになった。また、いったん決めたことを最期まで貫くことを、尊いこととも思わなくなった。(上野 千鶴子/文藝春秋 2019年5月号)

 上野千鶴子のこの言葉だけを切り取ってネット上で読んで、「お〜、そうなんだよ、その通りなんだよ!」と膝を打った。人間はいつどんなきっかけで、どんなことに気がつくのか、誰にもわかりゃしないんだよ、とずっと思っていた。だから尊厳死については非常に懐疑的に思ってきた。最後の最後まで私は冷静に判断するんだ、と思っている人が、正にその最後の最後になって、こうじゃない!こうじゃないんだ!と思うかも知れない。この世の中に生きている間だと、意外とそれが実現しなくたって、ま、良いか、どうにかなるだろうと思うのだけれど、いざ、自分がもうこれっきり、ここから先は存在しないんだ、何も残るどころか、正に「無」なんだよ、と思ったって、その「無」がどうなんだか、なんなんだかわからないんだけれど、あぁ、最後にはやっぱり意識をなくしても良いから留まっていたい!と思うかも知れない。

 「ゆらぎ」って云うと尾崎新先生がいっていたのかも知れないなぁと思ったんだけれど、実は尾崎先生と一緒に酒は飲めども、ちゃんとあの人の哲学をとことん考えたことはなかったなぁ。亡くなる前にあんなに時間があったんだから、もう少し聞いておけば良かった。

 5-6年前に胃がんだったと云っていた2歳年下の女性の友人が亡くなって、今日の葬儀・告別式に行ってみたら、妹さんの話では、3年前に骨肉腫が発見され、それから先はその骨肉腫の闘病生活だったそうだ。私はてっきり胃がんが再発したんだとばかり思っていた。最後はとても痛くて苦しかったらしくて、この治療を止めてしまったら後はどうなるのかと医者に相談していたそうだ。それでももう最後は「死んでも良いから、この治療を止めたい」といって、退院し、最後は痛み止めで苦痛を和らげるだけ。死の前日にヘルパーさんと妹さんに「さようなら」といったそうだ。

 人付き合いが良くてニコニコしていた人だけれど、実は芯が強くて、人の好き嫌いははっきりしているんだけれど、それを出さないニコニコだった。うちに秘めているものが大量にあったんじゃないかなぁと思っていた。ここ一年、みんなの前に出てこなかったのは、そういうことだった。最後にあったのは一昨年の年末の落語会だったような気がする。