ほぼ足りてまだ欲 その先

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衝動的

 キリスト教徒の間では、どうして私はキリスト教徒となったか、みたいなことが良くいわれるよね。お伺いしていると、皆さん、いろいろとあるんですね、これが。例えば、娘の火傷が奇跡的に治ったとか、こんなことを目の当たりにして奇跡的だった、といったことが書かれていると、羨ましいなぁという気が致しますね。そういう劇的なことが起きたら、そりゃもうどんな人だって、こりゃ信じないわけにはいかないじゃないですか。あぁ、本当に神様っているんだなぁと思うし、じゃ、新約聖書を読んでみようかなと云う気が致しましょう。
 歳末の盛り場で手持ちのスピーカーから「せいしょのみことばをききましょ〜」と流している聖書普及協会のやり方で聖書を取り上げる人が増えるとはとても思えないけれど、そんな奇跡的な出来事が身近で起きたら、そこに到達する人がいても不思議じゃない。
 ところが私の場合は、全くそんなことは起きてはいない。なにも起きていない。ある日突然「そうだ、教会に行こう!」と思った。そうそう「そうだ!京都へ行こう!」みたいなものだったんだよね。それでそれから、学校の礼拝堂に行くのが習慣になった時期があった。つまり、私の場合は至って衝動的な動機だった。
 特に、豪州にいた3年半のあいだは、ほぼ毎週歩いてすぐの教会に通うことになった。そこは白人しかいなかった。アジア人はゼロだった。車でちょっと行けば、毎週午後にはアジア人のために礼拝をしている教会もあったけれど、その近所の教会に行った。それはその教会がアングリカンだったから、という理由もあった。学校がアングリカンだったからだ。そこへあとから学生時代から聖歌隊のメンバーだったというご夫婦が偶然やってきた。つまり同窓生だ。それが縁で今でも信仰的には繋がっている。しかし、日曜日の朝、出かけるような生活習慣からもう4-5年ほど離れている。その人たちが日本へ帰国後も未だに聖歌隊のメンバーでいる教会に籍を置いている。どこかへ旅行しても、アングリカンの教会があれば必ず入り、主日に遭遇すればサービスに与っている。見知らぬ土地でのサービスも面白い。特にアメリカで大都会の大きな教会のサービスにいってみると、とてつもなく立派なその日の祈祷書の別刷りが配布されたり、献金がクレジットカードでできたりする。それでも概ねどこの街でも、会衆のほとんどはお爺さん、お婆さんだ。
 近年、New Yorkあたりではプロテスタントの黒人教会での盛んに唄うサービスが有名になり、既に観光地化している。マンハッタンの中心では、かつての劇場を会場にしてそうしたサービスを行っている集まりもある。しかし、観光地化してはいるけれど、それでも正式なサービスとなっている。日本でもそうした唄を、合唱団のようにして唄っている人たちが多くいて、そういうところへ足を運ぶ人が増えた。唄っている中身はもちろん聖歌の一種といっても良い歌詞で、主を賛美し、感謝しているわけだけれど、その中身については全く不問なわけなのね。「歌」として唄っている。「あーぁめぇーじぃぃぃんぐれぇぇーす」も「ゆえんなしばなはんどっぐ」も一緒である。それでもその種の教会では大歓迎してくれる。