ほぼ足りてまだ欲 その先

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新聞委員

 ふと昔のことを思い出した。

 中学一年生を終わって、静岡から横浜へ戻ってきた。越境して転入した都内の公立中学では、二年生の授業で、新聞造りをやった。そこからどういう経緯を辿ったのかは覚えていないのだけれど、クラスの新聞委員をした。図書委員とか、新聞委員とかってのは誰も積極的にはやらない。級長や副級長なんかに比べれば余程の好き者しかやらない。体育の授業で9人制のバレーボールをやって、クラス対抗戦が組まれた。うちの男子は一回戦だったか、二回戦だったかで負けた。その時に作ったガリ版のクラス新聞に「男子は惜敗」と見出しをつけたことを覚えている。その「惜敗」が良い!といってくれた先生がいて(担任だったのか、国語か、社会の先生だったのだろうか)、本人はすっかりその気になった。今でもその時のガリ版の自分の字を思い出すことができる。
 学校には全体の新聞というものが毎学期だったかに発行されることになっていて、新聞委員会というのが構成されていた。その委員会の委員になっていて、編集委員会かなんかに参画していた。記事を書いたかも知れないが、全体の構成は先生がやった。今になってみれば、その方が面白かっただろうに。しかし、その全体原稿を築地の印刷屋に持ち込むのをなぜか、中学生がやった。それこそ先生がやるべきのような気がするが、それを先生から指示されて、出かけた。京浜東北線に乗って有楽町で降り、数寄屋橋から都電で晴海通りを築地へいった。往復切符を車内で車掌から買った記憶がある。当時の中学生がそれをやることでどんなことになると先生は考えたのだろうか。ま、少なくともひとりの中学生の印象に残ったことは確かだ。
 区の公立中学の新聞委員会の集まりがあって、そこにNHKのカメラが来て、夕方のニュースで「マメ記者の集まり」だったか、映し出されたことも思い出した。駅の傍の銀行の上の会議室だった。

 あの中学は公立だったけれど、かなり面白い学校だったのではないかという気がする。美術の先生が面白くて印象に残っている。だいたい美術の先生というのはどこでもユニークだったかもしれない。高校でもかなりユニークなのが美術の先生だった。中学の先生は、「見たまま描かなくていい、自分が描きたいように描けばいい」といって、ガンガン絵の中に自分で好き勝手を描けば描くほど、先生に喜ばれた。朴の木を削ってなんでも良いから自分の好きなものを彫る、という授業の時に、私が作ったのは「握り心地の良い」像だった。それだけ見たらなんだかわからないという代物。そんなものが許された美術が好きだった。