ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

初めて

 シャーベットのことを「ソルベ」っていうんだと知ったのは、もう還暦も過ぎてからだったと思うのですが、生まれて初めてシャーベットなるものを食したのは、多分小学校3年ぐらいの頃で、食べたのは、今はなき銀座・立田野だったんです。オレンジのまるごと皮が器になっていて、その中に、それはそれはビックリのオレンジ・シャーベットが入っていたんです。どうしてそんなものを注文したのか、全く覚えていないだけではなくて、どうしてその時に銀座へいったのか、それも覚えていないのです。しかし、きっと立田野のオレンジシャーベットの想い出だけは、いつまでも覚えているんだろうと思うんですよ、認知症になっても。

 ちなみに生まれて初めてピザを食べたのは、中学二年生の時で、それは横浜の「オリジナル・ジョーズ」だったのですが、あの店は一体なぜあそこにあったんでしょうねぇ。近所の家族づきあいのあったお医者さんのご家族にお連れ戴いたのですが、どんな理由でお連れ戴いたのか、全く不明です。

 蔵前国技館の升席で相撲を見たのはたった一度で、それは私が小学一年生の時でした。うちの両親と私と、そのお医者さんのご長男と四人でした。私は鳴戸海が好きで(私と同じように痩せた(当時は)相撲取りでした)、彼が鏡里に勝った日で、とても嬉しかったのを覚えています。あれが最初で最後の私の相撲見物です。

 ちなみに「シャリアピン・ステーキ」を生まれて初めて食べたのは、多分1973年頃の頃で、場所は大手町・パレスホテルのダイニングでした。ギリシア人の船首の弟さん夫婦の接待だったのかなぁ。すっかり様変わりしてからのパレスホテルには全く足を踏み入れたことはありません。何しろもう用事がありませんからね。会社員だった頃は昼飯を食いに良くあそこのコーヒーショップへ行きました。

 初めて鰻って旨いんだな!と気がついたのは,これは随分遅くて、1978年頃、新宿の京王デパートの特選食堂でした。お義父さん、ごちそうさまでした。それまで私は、初めて食べた鰻のルックスと歯ごたえがイヤで、家族が鰻を食べている時に横で天丼を食べておりました。バカでした。長原の駅からそれほど遠くない、高校の友人の家に泊まった時に、あそこのおばあちゃんがそれじゃみんなで鰻を食べよう!といって取ってくれたんですが、それでも「僕だけは天丼をお願いします」といって顰蹙を買ったことも思い出します。あの友人は元気でいるだろうか。最後にあったのは、彼のお父さんのお葬式だったろうか。結婚してすぐに暮らしていた街の川魚屋で、折角買った鰻がゴムみたいな噛み応えだったのがいけなかったんだよなぁ。

 初めて、松坂の和田金で網焼きステーキを食べたのは1974年頃のことで、南アフリカから来られた某銀行の方を伊勢にご案内した時のことでした。そしてそれが最初で最後の和田金でございます。入ったことがあっただけでも幸せでございますが、あんな若造に案内されたご夫婦の気分はいかばかりであったかと、汗顔の至りでございます。確か、ウッドチップ運搬船の引き渡しにスポンサーとしてこられたご夫婦だったような記憶で、とても品の良さそうな、ご夫婦でした。

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 初めて運転免許を取ったのは、結婚してすぐの頃で、つれあいは既に運転免許を持っていて、実家から車も持ってきていました。日産のサニーという車です。しょっちゅうその車で東名と飛ばして横浜の実家、東京のつれあいの実家へ帰っていました。私は学生時代に学校がロックアウトされた時に自動車学校へ通い出したのに、すぐにロックアウトが解けてしまって、断念しました。しかし、20年前に車を手放していこう、二人ともほぼ運転することもなく、つれあいはとうとう免許を放棄しました。私はまだまだ数年は、年に一度の運転をするつもりです。

 生まれて初めてパーソナル・コンピューターに触ったのは、多分26年ほど前のことで、職場に導入した、アップルのマッキントッシュでした。それはLC 475で、グラフィックを担当していた社員からのたっての要望でした。当時、秘書室には1985年頃にすでに128kだったか512kが導入されていたけれど、ほとんど活用されておらず、私は隣のセクションでIBMのパソコンを使って原稿を書いていました。1995年に豪州へ赴任する際に、PowerBook150とLC520を持ち込みました。途中で出張で日本へ帰ってきた時に、PowerBook2400に買い換え、初めて画面がカラーになりました。LC520は豪州のお知り合いに譲りましたが、あれはその後どうなったんでしょうねぇ。その後G3を導入。デスクトップはMacMiniが出て久しぶりにデスクトップが復帰。それ以来今のMacMiniが三台目。今では旧型のMac Airをサブとして持っていますが、余程のことがない限り出番がありません。iPadですら「重いなぁ」と思うようになってしまったんですから、もう持って歩くのは辛い。昨年10月から初めてiPhoneを動かし始めました。最初のiPhoneが出てからもう10年以上経ちますよね。

 生まれて初めて飛行機に乗ったのは1970年8月で、日本航空のDC8で羽田からサンフランシスコへ飛びました。現地で知り合った日本人の若者たちにはかなり馬鹿にされました。「へぇー、JALで来たんだ!?」って。ほとんどの人は、当時まだ飛んでいたタイのサイアム航空とか、韓国の大韓航空のように、IATAに加盟していない航空会社の切符が安かったのでそれでした。この時、「バスボーイ」や「ハウスボーイ」という言葉を知りました。それで稼いで暮らしていた若者たちでした。
 今から考えてみると、当時、日本食屋さんやお土産屋さん、空港のデューティーフリーで働く日本人女性にはかつての戦争花嫁の人たちが少なくなかったのですね。当時の私は全くそんな気も廻らない、もの知らずでした。考えてみれば戦争が終わってまだ25年だったんですからね。もっといろいろなことに興味を持っていれば良かったなと後悔しますねぇ。
 Seattleのデパートで店員の白人のおばさんに、どこから来たのかと聴かれて「日本だ」と答えたら、とても嬉しそうに「うちの息子は今フォモーサにいるんだ!」といったことを覚えています。それが台湾だということを意味することに私は気がついていませんでした。「Woodstock」の映画を見たのはSeattleでした。その後興奮冷めやらず、そのままcoffee shopでハンバーガーを食べようとして入ったら、白人ばかりで、隣の爺さんはブツブツ第二次大戦がどうのこうのと呟き、あっちの方にいた白人の若者たちがこっちをじろじろ見ていて、慌てて食べて、逃げるようにして出てきたのを覚えています。この時は、日本に帰ってきてからもあれこれあって、これも書いておかないと忘れてしまうなぁとは思っているんだけれど、こういうところには書けないものなぁ。

 仕事を辞めてから初めて海外へ出かけたのは阪急交通社の英国ツアーでした。ついてきた添乗員が最低で、まるで自分はただでツアーに乗ってきた客みたいでした。何しろ集合時間前に来ているのに、進んでいるバスの時計を基準にし、お客を平気でないがしろにする。あれ以来、阪急交通社のツアーには参加していません。こうしてお客を失う商売の典型でした。

 最初にテレビに映ったのは、小学校3年か4年の時のこと。保健薬(なんという名前の薬だったか、全く覚えていない)のコマーシャルに、ホンの一瞬。M浦登君と一緒で、それぞれ100円貰った。私はそれで軟式のボールを買った。次は中学一年の時で、生まれて初めてアイススケートにいって、NHKのニュースに映った。翌年には大田区の各中学の新聞部が鎌田の駅前にあった銀行の二階の会議室に集められ、「マメ記者の連合会」とか云うニュースに映り、翌日美術の先生に冷やかされた。あの先生は面白い先生だった。当時の美術の教師には面白い人が多かったような気がする。その後は30数年前に工場の悲惨な火事の時にちらっと映ったくらい。

 ちなみに最初に吸ったたばこは「LARK」だったが未成年だった。