ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

戦後

 昭和11年、2.26事件直後、「大学は出たけれど」とまでいわれた不況の時代、うちの親父が就職したのは横浜の、元はといえば漁村の外れにできた船の修繕工場だった。関東大震災の前年に掘り込んだ船渠が完成したばかりだったのに、すぐさま地震で被害を受けたそうだ。
 私がその工場に初めて足を踏み入れたのがいつなのか、一向に記憶の奥底にしまい込まれてしまって取り出すことができないのだけれど、かなりちゃんと記憶ができる年頃になってからだという確信はある。それはなぜかというと、その会社に今度は自分が就職してからすぐにそこへ行き、試運転で清水の工場に回航する船に乗れ、といわれ、誰の案内を請うことなく、ドックの突端から出るタグボートに乗って沖止まりしている本船に乗った記憶がまだ残っているからだ。
 それが1971年の5月のことだったから、当時私は23歳、従って父親は還暦の頃で、同じ横浜だけれど、もう少し川崎寄りの工場に在籍していた。その工場は国鉄の駅からは、20分近く歩く。駅前に当時はまだ労働福祉施設があったようで、髙田馬場と同じように、朝になると日雇い労働者が仕事を求めて集まっていたような記憶がある。私鉄の駅を超えると激しく車が行き交う国道が走っていて、それを越える。左前方は駐留軍専用の桟橋。厳しい警戒態勢だった。まさかここをか?と思うような細い路地を折れると、時間が止まったような風景だった。立ち並ぶ家々はようやく戦争を終えて一息ついてでもいるような、か細いありさまで、横を行く運河は油の匂いが鼻をつき、とても昔、ここから漁船が出ていたとは信じがたい光景だった。とぼとぼと、運河沿いを歩いて行くと、運河の向こうには戦後建ったとおぼしき倉庫。くだんの工場へ近づくと、国鉄の貨物駅の線路を越えた右手に特徴のある匂いを四六時中漂わせる、ゴマ油の工場がある。この匂いがこのあたりの記憶を呼び覚ましてくれる。
 こんな経路を記憶にしっかり保っているということが、それまでにここへ来たことがあることの証明でもある。まだ配属されてから一週間経つか経たないかのうちだったのだから、そこに集まっていた、数十人の人たちに顔見知りがあるのはほんの数人だった。私が職務を引き継ぐ人はその職場にもう4年いるという人だったが、出身の大学がどこだったか、知っていたのだけれどもう思い出せない。なかなか変わった苗字の人だったからその苗字だけは覚えている。ただただ、その人のあとを、まるで金魚のフンのようにくっついていただけだった。
 その年は何度も何度もその工場へ出かけることがあって、通常だと船をドックに入れて、船底を塗装し直している間、二泊三日ほど実家からその工場へ通うことになる。時には、ドックの先輩たちと帰り道が一緒になり、オヤジを知っている人たちが、一杯飲んで帰ろうと誘ってくれる。私はほとんど呑めなかった。50代のその人たちはオヤジの仕事仲間だったわけで、そうか、あいつの息子なのか、と奢ってくれた。その奢ってくれる店なるものが、駅までの横丁にあって、とても酒を呑ますところではなさそうな家の開き戸を開け、木の床板に土足ではいると、火のついていないストーブにやかんがかかっていた。みんなてんでに、ガラスコップを手にして、そのヤカンから注いでいる。その中身が冷や酒だった。多分、冬はそのまま燗になる。なんでやかんに入っていたのか、知らないが、そういうものなので、それに異議を挟んではいけないな、とその疑問は呑み込むものだった。
 この工場はオヤジにとっては彼の社会人人生の出発点だったわけで、引退したあとに整理していたアルバムの中には、自分が最初に設計して作った、タグボートの写真を貼っていた。それにしても戦争を乗り越えて、良くそんな写真が残っていたものだ。この工場を経営していた会社は彼が入社してからわずか5年で他の会社に買い取られたので、私が入社した時は全く違う名前の会社になっていた。