もう日本は雪が少なくて、あちこちのスキー場はとても困っているらしいねぇ。人工降雪機で雪を降らせないとやっていけなくなっているってことはそれだけ設備工事に金がかかるわけだし、降らせるためには当然電気代から、人件費からかかるわけで、昔のようなわけには行かなくなる。どんどん金をかけていくのか、あるいはやめちゃうのか、悩ましいことだろうなぁ。スキー場の開発は、地元の雇用も創出するので、1970年代から、あちこちで流行った。リゾートマンションも開発されたし、ここへもってきて1980年代、バブルの頃には「私をスキーに連れてって」だから大流行!リフトに乗るのに、ながぁ〜い行列を作ったものだったよねぇ。
「スキー及びスノーボード国内人口は1998年の1800万人をピークに、2017年には約3分の1まで減少」したと云われているんだって。ピークが1998年だったというのは随分意外だったなぁ。もうその前にとっくに下っていたんだと思っていた。考えてみると、1998年というのは2月に長野オリンピックがあった年なのね。
船橋にあった人工スキー場ザウスは1993年から2002年のわずか9年間だったのはぴったりはまり込んではいる。そういえばあの施設のウィッキペディアを見ると、施行は鹿島建設で、設計は空間設計だという。肝心な企業の名前が書かれていないのは、なにか、意図があるのかも知れない。
考えてみると、私も1997年に滑ったのが最後のスキーだった。初めてスキーを履いたのは1968年の年末だったからおよそ30年の間、毎年とはいわないが、ほとんど毎冬スキーに行った。いった先でぎっくり腰になって、へろへろ帰ってきたこともあった。キャンディーズの解散コンサートのテレビを見たのは天元台のスキーヤーズベッドに泊まっていた時だった。そうそう、この話をしたかったんだ。1968年の最初の時からそうだったけれど、ほとんどのスキー宿はそうした、今風にいえばバックパッカースの様なベッドに泊まっていた。さもなきゃ民宿だ。そういえば、新婚旅行だって、スキー旅行だった。1979年の冬は米国ユタ州のSalt Lake Cityにいて、SnowbirdやPark City Mountainにスキーに行っていた。もちろん日帰りだった。その後は忙しくなってしまって、なかなか行かれなかったけれど、それでも会社の同僚たちと、一泊か二泊で上越あたりで滑った。北海道では二回滑ったことがある。やっぱりニセコの粉雪は全く次元が違っていた。こんな私でも深雪の中で滑れた。
もう無理だけれど、アルプスで滑ってみたかったなぁ。