ほぼ足りてまだ欲 その先

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戦争孤児

 母校を定年退職された先生が中心になって戦災孤児の戦後の状況を掘り起こしていて、関連書物を何点か読んだ。中国残留孤児のほとんども、戦災孤児と認識されるべきだろう。

金曜日早朝のラジオ深夜便「【明日へのことば】戦災孤児、そして、「駅の子」に 鈴木賀子(すずきよりこ)」を途中から聞いた。
 今の江東区(旧城東区)、昭和13年(1938年)生まれ。母、長姉、次姉、自分、弟。

3月10日の東京空襲で焼け出され、母親、長姉とはどうなったかわからなかった。
焼死体がゴロゴロしていて、わからなかった。
大井のオジサンのところへ行こうとなった。
焼け出された人が一杯来ていた。

尾久のオジサンのところへ行った。
綺麗なおばさんが来て、電車に乗って小樽に行った。
最初は優しいおばさんだったんだけれど、
箸の上げ下ろしにうるさくなってきた頃、おねしょをする弟をよく折檻した。
弟をかばった。
「貰っては来たけれど、こんなに可愛くないとは思わなかった!」

ある時弟がいなくなって、駅にいた。
「お姉ちゃんがいる東京へ帰ろう」
東京へ返して下さい、私は来たくて来たんじゃない、
そんなこというから、かわいかないよねぇ。
二人で連絡船に乗った時には本当に悲しくて泣いた。
弟と二人でどうしょう。
次姉がいる「高円寺」を思い出した。
7歳と4歳の東京帰還の旅。
途中で物乞いをしながら帰ってきた。

まだ10代前半の次姉が勤めていた国鉄の寮に弟二人で転がり込む。
次姉が「おまえは強いねぇ」
寮で何かが起きるとすぐ疑われた。

それで上野の地下通路に移動した。
毎日のように人が死んだ。
大人の時は三人くらい、子どもの時は二人くらいで運び出す。
人が死んだことなんかどうでも良い、とにかく食べるものだった。
それでも人から暴力されることはない。
上野の山の公園に行って、地方から出てきた人がお弁当をひろげたら、子ども数人でかっぱらう。
悪いことなんて思ってなかったんだと思う。
とにかく食べるものがないんだから。
国鉄に行っている姉が時々何か食べるものを持ってきてくれるんだけれど、みんなに内緒で弟と二人で食べた。
朝から晩まで食べることしか考えていなかった。

姉が探してきたところへ行ったら、弟しか受け入れて貰えなかった。
守谷のうちに行った。
三人の子どもがいるうちだった。
三人は二膳目のご飯をお代わりしていたけれど、私は「水か?」って。

次に小さな農家に貰われていった。
お母さんと20歳のお兄さんがいた。
ご飯を食べている時に、「お代わりは?」って聞かれた時には嬉しくて涙が出た。
中学終わるまで面倒をみて貰った。
近所の人が「あの子は孤児なんだってよ」と言っているのが聞こえてきた。
とにかく村では「よい子」でいようと頑張っていた。
そのうちに恥をかかせてはいけないと、頑張った。
そのお母さんが癌で死ぬ前に「あんたにもう少し甘えて欲しかった」といった。

私にとって戦争が本当に終わったのは、結婚した時だったように思う。
こんな人生を送ったのは私ばっかりじゃないから、戰争が心の傷になっているというより、私にとって力の根源だと思う。
「少しは人に寄りかかるってのも必要じゃないのか」と旦那にも言われた。
守谷のお母さんとお兄さんの墓参りだけは欠かさない。