ほぼ足りてまだ欲 その先

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日系米兵

 1991年に草思社から出版されたものである。著者は1921年4月、カリフォルニア州サクラメント生まれの日系二世。父親は山梨、母親は広島の出身。小学校の生徒のほとんどは日系人だったという。1939年、サクラメントのシティカレッジに入学。1942年6月にツール・レイクの強制収容所に収容される。収容所で日系人の子ども達のために教師をしていたトーマス・E・ブリーズという白人の先生の手伝いをしていたが、是非大学へ行きなさいという援助とメソジスト教会奨学金を得て、1943年6月にシカゴへ行き、9月からフィラデルフィア郊外のクウェーカー男子大学に入学する。しかし、米国が日系人にも徴兵に応じることを認めたため、ミネソタにできた陸軍情報部日本語学校(MISLS)へ応集することになる。1944年5月にハリスバーグの陸軍基地で入隊。少々の訓練ののち、フィリピン・マニラに到着したのは1945年8月1日のことだ。彼はここで日本兵俘虜収容所の通訳兵として働く。終戦前後のことで様々なことが起きる。たくさんの日本兵が敗戦を知って降伏してくるが、それを米兵が現地住民から日本兵俘虜を守るために警備に付くことに驚く。

(俘虜となった日本人の)ある従軍記者は、(俘虜を収容所へ運ぶ)トラックが走り出す際「東京で、立教大学の前で、また会いましょう!」と手を振りながら叫んで去って行った。

 降伏してくる日本兵が彼等の間でも、降伏したあとも、何かといってはビンタを暮れていたことを目の当たりにして、彼は相当に困惑している。「ビンタという根深くしみこんだ習慣を持っていなかったとしたら、日本軍人による戦争犯罪とされた虐待行為の発生は最小限にとどまっていたであろうと考えるのは単純すぎるであろうか。」とさえいっている。多分この指摘は相当程度に当たっているだろう。常習化していた暴力行為は、自分よりも弱い、あるいは下位に位置すると認定した相手に対して爆発するだろう。だから、日本人がそんなに罪なことか、と思っているようなことで、裁かれた日本兵が多くいることに不思議はないんだろうと思う。私が中学生の頃も、教師が罰として、いうことを聞かない生徒にビンタをくれていたのを見たこともある。まだそんな風習がおかしいと思われていなかった、それくらい、日本人の風習の中に根付いていたと云っても良いだろう。

MISLSはドナルド・キーンも所属していた機関である。