ほぼ足りてまだ欲 その先

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ドラマトゥルギー

 こんな言葉聞いたことがなかったのさ。ドラマってのが頭についていまさぁねぇ。まるでテレビドラマのドラマみたいだけれど、正にそれでしょうね。その場で期待される役割ってことで良いのかなぁ。どうやら社会学で使われる用語のようで、日本語にすると陳腐になっちゃうのかなぁ。
 なんで今頃こんなことをいいだしたのかというと、例の平凡社がかつて出していた隔月刊「こころ」19号(2014年)「100人が綴る私の思い出の一冊」の中で何人もの人がこの本を取り上げていたからなのだ。何だか厄介な言葉だよなぁと思って敬遠していたんだけれど、改めてこの本を手に取ってみたら、林達夫久野収の対談なのである。二人とも京大哲学の出身で林達夫は1896年の生まれ、久野収は1910年の生まれである。

 昔から不思議に思っていたことなんだが、仕事の現場で遭遇する様々な相手との関係性が、ある瞬間に、あ、これは多分こういう傾向でものを捉える人で、そういう場合にはこういうことをいうと、きっとこういう風な反応で返ってくるんじゃないかと思うからそうやってみよう、とするとなんと、やっぱりそうなってきたなぁという感想を持つことが何度もあって(なんともわかりにくい文章で恐縮だけれど)、これはなんだろうと思った。多分、相手も、自分がそれまで遭遇したことがあるパターンの中から自分が気に入ったものを選んでそれをやっている(つまり演じている)から、そうなんじゃないか、とも思ったりした。
 いやいや、全然そんなこととは違うんだよ、という話なのかも知れないと思いながら手に入れたんだが、果たしてどうなんだろうか。

 今更なんだよ、というような本だけれど、「知識と文脈で深める」という言葉に釣られ、尚且つ出版社のtwitterに釣られて手にしてみたいと思うようになった。今のところ三つの書店にしか置いてないというから余計にその気になって、三つのうちのひとつにとても久しぶりに行ったんだね。久しぶりに行って見て、そういえば丸善本店OAZOはひと頃随分通ったなぁと、いや、あれはいったいいつ頃のことだったんだろう、なんでこの店にしょっちゅうあがったんだろうかと全く思い出せない。オープンは2004年だというが、その頃は大手町なんかにはいなかったわけで、通っていたとしたら池袋に行っていた時代だ。丸ノ内線で出てくるにしても、経路としては不自然だ。