1970年代の中頃というと、私は工場に勤務して数年経っていた。若気の至りだけれど、数年現場を経験して、結構訳知り顔であちこち出張した。今から考えてみるとまだほんの駆け出しのくせに、結構わかっているような雰囲気で、かなり生意気だったんだろうと想像できる。
当時扱っていた船は一年間の保証期間というものがあって、その間に出た不具合箇所は船が日本へ帰ってきた時に修理をする。部品も交換する。そのために船の寄港地へ出かけるわけだ。
港とくれば当然のことかつては廓があった。そうした施設は1958年の法律で商売替えを余儀なくされて、ほとんどは木賃宿になった。私たちはそんな安宿を探してはそこを根城にして仕事をした。名古屋でも、佐世保でも、妙にひと部屋ごとに安っぽく凝った作りで、それだからこそより一層うらぶれ感が募る部屋に草臥れて帰ってきたものだった。あの頃にはまだまだ日本全国に、そうした建物が平然と残されていた。だからこそ、すぐ前までの日本というものが眼前とあったわけだけれど、今やそんなものが全く払拭されて、その頃の日本のことは口をつぐんで出さなければ、誰ももう振り返らない。だから余計に、若者たちは知らんふりをしている。たしかに彼らにはなんの関係もないかも知れないけれど、この国がどんな価値観を振り回してきたのかについては知っておくべきだし、知らないふりは許されないと思う。その中には諸外国に置いて私たちの国が何をしてきたのかも含まれる。旭日旗や、日の丸を振りかざして、何をしてきたのかも知らなくてはならないはずだ。