ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

サブちゃん


www.youtube.com


べつに北島三郎の話をしようというのではない。
私は清水で育った小学生高学年から中学1年生の頃、学校の友達から「サブちゃん」と呼ばれていた。
なんで自分の名前に全く関係がないのに、そう呼ばれていたのか。
1958年4月7日-1963年3月30日に夜のNHKニュースのあと、19時15分から放送されていた「バス通り裏」という帯ドラマがあった。
三保の折戸に住んでいた頃はこの時間に丁度裏の線路を三保線の蒸気機関車に引っ張られた列車がガタンガタンと通って、テレビの画面が乱れるのだった。日本平のてっぺんにあるアンテナと、うちのアンテナの間に汽車が入って邪魔をする。
このドラマの主人公は、十朱幸代と宗方勝巳だったんじゃないかなぁ。十朱幸代はテレビではもうすでによく出ていた十朱久雄の娘だった。その十朱幸代の友達として出演していたのが岩下志麻だった。
洗濯屋の御用聞きとして出演していたのが、女優荒木道子の息子の荒木一郎だった。
この御用聞きの役名が「サブちゃん」だった。
で、当時の私がその荒木一郎に似ているというので、当時の友達は皆私を「サブちゃん」と呼んでいたのだった。
要するに一重の細い目で、ノペーとした顔をしていた。
その顔は20代前半まで続いた。
結婚披露宴の時の記念写真をみると、正にそんな顔をしている。
荒木一郎はシンガー、ソングライターとして次々にヒットを飛ばし、ニッポン放送ラジオ番組「星 に唄おう 」を持って一世を風靡する。
なにしろ「似ている」といわれたくらいだから、私もとても彼の歌が好きになり、ラジオ番組の今でいう「ヘビー・リスナー」になった。
荒木一郎はその後、そういう家庭に育ったからわがままそのもの、というような風評が週刊誌ネタになったかと思ったら事件を起こす。

1969年1月に女優志願の17歳の女子高生を麻布十番のマンションに連れ込み、わいせつな行為や打撲傷を負わせた疑いで逮捕され、2月28日に釈放。4月に示談となる。しかし、もちろん芸能界からは追放同然。妻の榊ひろみは離婚。それからはこの事件の影を引きずって生きることになる。

その荒木一郎が去年の10月日本を出していたのは知らなかった。本屋の店頭でも一度も気がついたことがない。なんと3,300円もする。いささか逡巡する。そんな金を出すだけの価値があるんだろうか。

追記
 本屋で立ち読みした。知りたかったのは、かつて荒木一郎がステージに出てくるやいなや、セットから落っこちてそのままその舞台は中止になったという現場にいたので、その話。
 やっぱりかなり後ろの方にその一件が書かれていた。当時(いつのことだかもう覚えていない。多分、1968-9年頃。)彼のステージでは、下にしっかりとしたクッションを敷いて、出だしにわざと彼が落ちて、その替え玉がもがいているところで、荒木一郎本人が袖から平然と出てくる、というからくりをやっていたそうだ。そのツアーのその日が最終日だったという。それが私が見た音協の舞台だった。この日、現場を見た荒木一郎がクッションの設定がたった座布団4枚だったことに危惧を覚え、もっとちゃんとやってよといってたが、周囲の現場の雰囲気は「なにを甘っちょろいこといってんだ」的な、如何にも現場で囁かれそうな対応だったと書いている。やらない選択肢もあったけれど、結局それをやって、ものの見事に地に足がついた時には「パキッ」と音がして腓骨骨折だったと。しかし、客席には笑い声が起きたと。たしかに私も笑った記憶はあるし、「嘘だろっ!」と口にしたくらいだ。客席が明るくなって、あれ?っと思っているうちに救急車のサイレンが聞こえ、場内に「本日の舞台はこれにて中止といたします」とアナウンスされ、何だほんとに落ちたのか、とわかったというのが記憶だった。
 そういえば、今どきの人たちには、音協とか、労音民音なんてのがわからないらしい。そりゃそうだろう。労音が1950年代に労働運動側から発生したというべき勤労者音楽協議会で、音協は60年代に入って経団連や商工会議所といった経営者サイドが作った東京音協(東京音楽文化協会)。他に創価学会が作った民主音楽協会民音)というのがあった。