昭和天皇の裕仁さんの弟さんだった三笠宮の崇仁(たかひと)さんの奥さんだった旧姓高木百合子さんが101歳で、聖路加病院でなくなったそうですね。で、「皇族や三位(さんみ)以上の貴人が亡くなること」を薨去(こうきょ)というんだそうでございますなぁ。そりゃ知りませんでした。なにやら現人神と云われた時代の名残のような気がしないでもありません。ご逝去といった人に、言葉を知らないのか、とSNSなんかで噛みついている輩が降りますが、そんなん知りませんがな。
三笠宮といえば、子どもたちはどんどん早死してしまいましたねぇ。それでもヒゲの寬仁さんは66歳で、いろいろあった桂宮宜仁さんも66歳、高円宮憲仁さんはなんと47歳で亡くなってしまいました。赤十字の近衞忠煇に嫁いだ甯子さんは80歳、千宗室に嫁いだ容子さんは74歳で健在のようですが、百合子さんの葬儀の喪主は亡き寬仁さんの長女で42歳の彬子(あきこ)さんだそうです。彼女のお母さん、つまりヒゲの寬仁さんの奥さんは麻生太郎の妹の信子さん(69歳)でございます。つまり、ま、いわゆるお上の世の中はこんな事になっておりますんですな。
三笠宮崇仁さんといえばウィキペディアには「陸軍大尉時代の1943年(昭和18年)1月から翌1944年(昭和19年)1月まで、コードネーム「若杉」(姓は印にちなんで作られた)として、南京市の支那派遣軍総司令部に勤務。」と書かれております。そして「日本軍は中華民国との戦争が長引き戦闘が泥沼状態になっており、軍紀が乱れている者が一部いる事を深く反省すべきである」と指摘までしていたと書いてある。戦後には紀元節の復活には強く反対していたことは知られているけれど、今じゃもうほとんどの人は忘れているでしょう。
そうそう、そういえば三笠宮崇仁さんといえば、戦後フォークダンスの普及にも随分尽力されたらしくて、1951年にはリクリエーション協会の総裁になっていました。なんでも新しもの好きだったみたいです。私が初めてコロブチカを踊ったのは1959年ですから、その頃はご尽力のお陰で流行っていたのかもしれないですね。その私が土曜日の午後、中学校の校庭でオクラホマミキサーを踊るようになったのは多分1962年だったかもしれません。
それにしても旦那は百歳、かみさんは101歳でお隠れ遊ばしたってんですから、長寿の組み合わせだったんですねぇ。