
戦争が終わってから昨年の8月で、なんと80年も経ってしまった。戦争のことはなにも知らない。戦後の生まれだからだ。ところが幼かった時期には戦争の残滓があちこちに転がっていたような気がする。波板で葺いたかまぼこ型の米軍の兵舎が近所には普通にあった。今から考えたら随分粗末な建物だけれど、その頃にはなんだかモダンなような気がした。近所の商店街では八百屋、魚屋、お菓子や、酒屋、蕎麦屋、駄菓子屋、乾物屋とそれなりに一揃いあった。ところが近所にいわゆる「市場」というものが出来て、そこに、間口が二間くらいしかない小さな店がズラッと並んでいた。それ以前は商店街にいっていたのに、母親はそっちの市場へ行くようになった。その辺から世の中が難しくなってきたような気がするが、どんどん金の力を垣間見るような世の中になってきたような気がする。その頃までは何をするにも再生して作り直すということが普通な生活だったような気がする。(氣がしてばっかりだ)。
小学校の低学年の時のことだ。ある日、クラスの担任が、あまりにも宿題を忘れてきた子どもたちが多くいたようなことがあって、忘れてきた子どもたちに椅子から降りて床に正座しろといった。担任は女性で宮本先生といった。私もその正座組だった。隣りに座っていた堀江さんはちゃんとそれをやってきていて、椅子に座っていた。その時に先生が「ちゃんとやってきた人には画用紙を上げます」といった。画用紙がご褒美だった時代である。「すぐにふくれる」と親からしょっちゅういわれていた私は思わず「そんなものいらねぇや」と口に出した。すると私のあこがれの堀江さんが手を上げて「先生!そんなものいらないっていってます!」と告げ口を大きな声でしたのである。すっかりこの一言が私を傷つけた。だから今になってもこうして全く忘れられない。堀江さん、勘弁してよ。そういえば彼女の家へ遊びに行ったことが一回だけあった。それは多分土曜日の午後のことで、彼女の家には二人いたお兄さんのひとりがいただけだったような気がする。その後一番上のお兄さんは小学生の時になくなったと聞いたようなあやふやな覚えがある。
実はこの堀江美智子さんについては、後日驚くような再会があったのである。それは中学3年生の時のことで、私はとてもはっきりと覚えているけれど、多分彼女は全く認識していなかっただろうというくらいのことなので、これを再会といえるかどうかは定かではない。

話は違うが、佐多稲子は長崎の生まれだけれど、子供の頃に父親に連れられて上京し、向島に住み、牛島小学校(現在の小梅小学校)へ入ったけれど、すぐに貧しくて行かなくなった。浅草の中華そば屋に奉公したら「あんたは笑わない子だねぇ」といわれ、東京の幅広包丁がうまく使えなくて帰されたという。NHKラジオの第二放送の番組で古いインタビューが流れた。その中で本人の話である。
それにしても昔の人は随分強い心を持って生きていたんだなぁ。芥川龍之介の自死の話には驚いた。
龍之介は、人づてに佐多稲子がかつて心中しそこなったことがあるということを聞いて、本人に聴いたそうだ。何を用いたのか、生き返った時にまた自殺しようという気になったのかと。そしてその4日後に芥川龍之介が本当に自殺したんだそうだ。そりゃショックだろうなぁ。