ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

日豪会合

 第30回日豪合同セミナー(こちら)の開催案内が届く。私はこの会合がどのような経緯で開かれるようになったのかを知らないが、30回続いているというのは大いに意味があると思う。毎回豪州大使館からどなたかが参加されていて面白い話を聞いたこともある。
 私が初めて参加したのは2005年の第26回のことで、お目当ての分科会があって大学セミナー・ハウスに初めて登ったのだけれど、行ってみたら「その分科会はもう一杯ですから第2志望の分科会になりました」といわれてしまってがっかりしてしまった記憶がある。本当にボランティアの皆さんで運営しているそうでこれだけ継続して運営していくというのはよほど上手く核が構成されているということだろうと思われる。
 昨年は丁度この時期に外に出掛けてしまったので参加ができなかったので今年は楽しみにしていたのだけれど、自分にとって興味を引くテーマの分科会を見つけられない。これでは多分今年も参加しないということになりそうだ。
 その翌週の土日に青山学院大学で開かれるのが「日本オーストラリア学会」だけれども、こちらはまだ詳報がない。

昨日は憲法記念日だったか・・・

5月3日(日)NHK-教育テレビ ETV「いま憲法25条“生存権“を考える 〜対論 内橋克人 湯浅誠
 これまで企業福祉に頼ってきた日本には社会保障をまともに語ってきた歴史がなかったといっても良いのではないかという湯浅の言葉が、私が何かが違っていると思っていたところを明らかにしてくれたような気がした。
 湯浅誠が村長を務める派遣村で、朝日訴訟の原告であった朝日茂の養子としてその遺志を継いできた朝日健二が今でも相談者の相談相手になっているのを知って、ここまで活動しているのかと驚いた。

企業主権

 企業が健全に存在しない限りこの国の経済は成り立たず、それが成り立たなければこの国の国民生活が成り立たないと説明されてきたこの国の「新自由主義」が正しいのであれば、この国の首根っこはひとつひとつの企業の手に握られているということになる。そうだとするとこうした企業はこの国の成り立ちに対して大きな責任を負っているということだ。つまり、この国の主権は常に自分たちの利益を追求する企業集団にあるということになるだろうか。
 高度経済成長下にあっては、各大企業群がそれぞれに企業城下町を構成して企業住宅街を構成し、企業が肩入れする商店を設け、各企業が予算を割いている休養施設を設け、退職後の年金をあつらえ、健康保険組合まで運営してきていたし、あまつさえ企業内預金制度までしつらえていた。それが労働力を確保するための有効な手段だった。そしてそこから周辺の下請け企業にいわゆる「滴(しずく)」が垂れていって広く潤していくというシステムが機能しているのだと、認識され、それを是としてきていた。この考えは民間企業だけの話ではなくて、当時の国鉄が鉄道利用まで職員に補償してきていたことに見るように広くあまねく受け入れられていた。そんなのは大きな組織だけの話だったのかといえば、既に書いたようにそこから経済活動として広がるんだという思想だ。
 しかし、これは国が負担するべき根本的システムの構築とその執行を民間に委ねてしまったということだろう。ではその間行政機関は何をしていたのかといえば、その最高機関たる内閣はその立脚点たる選挙制度に汲々としてここまでやってきたといって良いだろう。そのただただ一点だけに関心を向け、国民の幸せを利益追求集団たる企業にずっと委ねてきてしまった。その証拠に、「選挙が近い、選挙が近い」というムードが高まる中で、「その場限り政権」与党は形ばかりの高速道路利用料の限定的な値下げで渋滞の楽しみを再認識させてくれ、まるで一夜の接待呑み会のように定額給付金をばらまいて、遣ってしまえば、翌朝の物足りなさと自己嫌悪をこんなところで再体験させてくれる。なんでも児童手当のようなものも「単年度」支給しようとしているらしいではないか。これを「選挙対策」といわずに「経済政策」だというのはあまりにもお粗末すぎる。
 企業は別にその「企業福祉機関」としての役割を至上命題として捉えて活動してきたわけではなくて、そうすることによって労働力を手元に置いて安定した活動を確保するためにやって来ただけであって、いまそれを放り出しているだけの話である。
 2000年の福祉構造改革で大きく取り上げられていたのは福祉の門戸を民間企業へ大きく開く、という考え方だった。その挙げ句の果てがグッドウィルという「良き意思」の働かなかった企業に象徴される、大規模展開した挙げ句の、そのまた果ての大撤退だったわけだ。彼らの罪は介護労働を貶めてしまったことにもあるし、人による人への関わりという「良き行動」に水を差したことにもある。
 港区の某有名私立大学経済学部教授が今でもしつこく唱える「新自由主義」による「このままでは企業がこの国から脱出してしまって産業は空洞化してしまうのだ」という脅しはこれから先の話なのかといったら、もうすでにずっと前から企業のいいなりに「規制緩和」という憲法違反を犯して、国民を差別化し、切り捨ててきたということなのではなかったか。脅される前にもう既に騙されていたということだ。労働者派遣法を改悪して製造業にもこれの適用を推進するという「規制緩和」は、こうした「企業福祉国家」からただ「福祉」を取り去って「企業国家」へと簡単に舵を切っただけの話なのだ。
 憲法を遵守し、最高裁による「朝日訴訟」の判例を考えた行政としての判断を適正に下していくのだとすると、国は「生存権」を具体的に構築して行かなくてはならない。しかも、それは最後に放り出してしまう利益追求集団に委ねてはならないはずだ。そうしたら「小さな政府」を売り物に多くの福祉行政を民間に放り出してしまう考えが明確に間違っていて、それは国民を恫喝して利権を確保するというシステムのひとつのパターンであるといって良いだろう。
 「学識経験者」というはなはだ耳障りの良い肩書きに酔いしれながら、「利益追求集団→霞ヶ関→政権与党」に「屁理屈」を提供し、それを許し、お墨付きを与え続けてきた「御用学者」の罪は相当に大きくて、私たちは誰がいっていることが正しいのか、耳をそばだてる必要があるし、それに騙されない注意が必要だ。
 昨日朝のTBSテレビ「時事放談」で民主党渡部恒三がアン・フェアな検察のやり方には指摘すべき点がたくさんあるけれど、政権交代のために何が必要かを考えて「小沢君が自分で考えればよい」と発言していたように私は聞いた。私が当初からいってきたことに私自身が無理矢理惹きつけて聞いてしまったかも知れなかったけれど。
 民主党は「政権を取ったらこうする」行動指針をもっと前面に押し出して行かなくては機能していることにならない。ましてや小沢が今のままでズルズルしているという状況は「小泉—竹中」から「安倍」「麻生」に繋がる自民党、そして批判されるととことん自己肯定に挺身する集団でしかない連立パートナーの「政治否定政治集団(?)」と大して変わっていないという批判に応えられない。渡部恒三をはじめとして民主党幹部はそれこそ身を挺して小沢を説得せよ。これができないようでは民主党はやっぱり組織として腐敗しているといって良いだろう。目の前の辞退に正面から対峙して覚醒せよ。