ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

岸田文雄


 安倍晋三菅義偉も相当ひどかったけれど、岸田文雄は不正を不正として詳らかにすることもできないだけじゃなくて、世の中を正しいものにするということもできない。
 ご案内のとおり、国会議員たちが揃いも揃って表に出せない金を作っていたことだけでも十分びっくり仰天な事態だけれど、じゃ、それを正しい姿にしようじゃないか、という気持ちすら彼は見せることができない。正しい姿にする必要がないと思っている。
 いや、政治を司る立場にあって、正しい姿にしなくてはならないと思ってもいないわけはないだろうから、そんなことをしたら、今の自分の立場はなくなると恐れているんだろう。本質を突いた質問をされたときのあたふたぶりは尋常じゃない。しどろもどろでとにかく時間を潰して、明後日のことをいって終わればいいと思っているとしか見えない。衆議院ネットや参議院ネットで答弁を見ると、そのあたりが良く分かる。もっとも、維新や国民民主なんかの質疑答弁ではどうしようもないけれど。共産党、れいわ、と対峙したときの岸田をご覧あれ。
 なんで恐ろしいと思っているのか。自分が今の立場から追われることが嫌だからなのか。ただただ、総理大臣、党の総裁でいたい、と思っているからなのか。何しろ彼は「総理大臣になりたかった!」といったが、「総理大臣になるのは、これをやりたいからだ」といったことはない。まぁ、強いていえば今やたらいっている「憲法改正」か。しかし、それは安倍晋三麻生太郎もいっていた。彼奴等、憲法を守るスタンスにはいないよね。憲法を守らない国家公務員。
 世論調査の支持率、わずかに20%だよ?もうだめだなぁ、と普通だったら思うんじゃないのか。ま、彼は普通じゃないから、イケシャーシャーといられるってことか。
 しかし、それにしてもお粗末だね。


 一説によると、都知事選と一緒の選挙日にするという噂が飛んでいる。それまずいなぁ。私はその日は日本にいない可能性がある。

 本当に日本国民はこんな政党にまた投票するのか、また投票にいかないのか。

 イランの大統領のヘリコプターが墜落して、乗っていた全員が死んだ。BBCはニュースで、「died」といわずに「killed」といった。なにか知っているのか。イスラエルが攻撃した可能性があるんだろうか。ひょっとするとひょっとするか。

李香蘭

 こっちも入手しておかなくてはということで図書館から借りだした。
旅行中に読もうと思っている。
山口淑子は1950年にハリウッドにいっている。
ニューヨークのアクターズ・スタジオで発声術なんぞ学んでいる。
エディット・ピアフがクラブで歌っていたという。
山口淑子は映画『東は東』(ひがしはひがし、原題:Japanese War Bride)にその日本人の戦争花嫁役で出演する。
一方、ミュージカルへの出演も決まる。
王様と私」に出演していたユル・ブリンナーを紹介され、何度も彼とデイトをした。
ユル・ブリンナーは(知らなかったけれど)モンゴル人の父親とルーマニア系ジプシーの母から樺太で生まれたと書いてある。
このニューヨーク滞在中にイサム・ノグチと出会っている。そういえば、ユル・ブリンナーイサム・ノグチは似ていないことはないなぁ。
イサム・ノグチ山口淑子を取り持ったのは、どうやら石垣榮太郎・綾子夫婦らしい。石垣榮太郎のことは私は全く知らないけれど、石垣綾子は1996年まで存命で、時としてテレビなんぞで見た記憶はある。石垣栄太郎は画家で、野口米次郎とは友人だったので、もちろんイサム・ノグチとは旧知だったようだ。イサム・ノグチ山口淑子に「戦争の間は苦しんだでしょう」と語りかけたというのだ。時にイサム・ノグチは46歳だったそうだ。山口淑子は30歳で、年の差16歳。今だったら、芸能人の年の差婚としてはまま、あり得るかもしれない。
チャーリー・チャップリンビバリーヒルズの大邸宅へ連れて行ってくれたのもイサム・ノグチだったそうで、その頃チャップリンは映画「ライムライト」製作中で、作ったばかりだというあのテーマ曲をピアノで聞かせたという。


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 チャップリンがスイスへ移住してからも山口淑子は何度か訪れたことがあるという。

 イサム・ノグチ山口淑子が結婚して北鎌倉の北大路魯山人の家を借りて住んだのは、イサム・ノグチ魯山人と友人だったからだそうだ。山口淑子は1953年まで米国入国のヴィザがおりなかった。それは彼女が赤狩りのリストに載っていたからだった。

ロッキード事件児玉誉士夫代理人として働いたといわれるロバート・H・ブースは1952年に退役して日本にいて、「霧笛」という映画に出たことがあるという。

 イサム・ノグチ山口淑子は4年間結婚していたことになったけれど、その間、ヴィザの問題なんかもあって、まるっきりのすれ違いだったようだ。イサム・ノグチの結婚の話がようやくわかった。(あれ?ドウス昌代の本を読んだはずなのに、なんで知らなかったんだろう。すっかり忘れているということか。やれ、やれ。)彼女はその間二度流産したそうだ。
1958年に8歳年下の外交官、大鷹弘と再婚。

この本の底本は1987年に出版。山口淑子は2014年に94歳で死去。夫となった大鷹弘は2001年に73歳で死去。イサム・ノグチは1988年に84歳で死去。

ことば

 人にいえるような 良いことは なにもしてこなかった。

 これからも たぶんそんなことは なにもないだろう。

祭り

 祭りに、一度も街なかへ出かけることなく、町内神輿も、本社の神輿も、一度も見ることなく終えたのはたぶん日本にいなかった四年の間を除けば、この50数年の間、初めてだったろう。

一糸乱れぬ

 「一糸乱れぬ」全体の動きってのが大好きなのが全体主義者で、北朝鮮や戦後の仏教系新興宗教(はっきりいってしまえば創価学会立正佼成会)のマスゲームソビエト連邦やその後継的ロシアの軍事パレード、あたりを見ていればわかるけれど、私を無にしてなんの意思もなく、いわれるがままに機械的な動作に没頭する姿が評価されるんだろうね。
 大日本帝國ファシズムの例外ではなくて、アドルフ・ヒットラーナチスを手本に大喜びでマスゲーム的国家をつくらんと腐心をしておりましたな。
 その残滓が戦後の学校教育にもそのまま導入されておったわけで、私達は小学校の時から、「前にならい!(倣えだけどね)」や「右へ倣え!」「番号!」なんぞやらされました。番号の時に誰かが途中でとちると「番号もとい!」といわれてまたイチ、ニ、サン・・とやらされましたよ。軍隊だね、まさに。ビシッと決まると気持ちが良いって。なんで気持ちが良いんだろう。朝礼が終わって、教室へ入るのにも、行進曲がかかって、「歩調を取って」行進していきました。これが軍隊でなくて、なんだっての。

 どこかの体育大学の、号令いっか一糸乱れぬ行進で、ぶつかりもせず交差するのを見て観衆が「お〜!」と歓声を上げるのがYouTubeにあがっておりますが、皆さんこんなの大好きですよね。シルク・ド・ソレイユあたりでそれをやるならまだしも、小学校、中学校でそんなことをやってなんの足しになるかよ、という気になりますが、多分日本保守党やら、月刊Hanada近辺の諸先生方はそれを見て、感動の涙をお流しになりますでしょうね。お〜、これこそが日本の伝統的な滅私奉公の精神の現れです!なんぞといってね。日本の伝統なんかじゃない、全体主義の喜びそのものなんですな、これが。


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一糸乱れぬ、みんな好き。

 直球のようなタイトルだけれど、著者の博論が核になっているらしい。
大変な量の資料を読み込んでいるのを見ると、こりゃ大変だなぁと思うが、まさにそのままあとがきに書いてある。
ただ、なんでこの論文なのに、保阪正康を始めとした資料が含まれていないのか、それが疑問。
保阪もジャーナリズムとアカデミック研究は別のものだという言い方をするけれど、アカデミズムもそう取っているということなのか。
あんまりその辺の壁は要らないと思うんだけれどなぁ。
 とにかく、興味深い。月刊Hanadaの感想を聞きたい。

 月刊「野球少年」が出てくるかと思って図書館から借りてきたんだけれど、全く出てこなかった。この雑誌の編集者は若すぎて、多分この企画には不向きだったんだろう。とても残念な結果である。特集の意味がない。

祭りはじまり

 今日から日曜日まで祭り期間。もとの町会の神酒所に奉納する。つれあいにそんなに出すのかといわれた。こういうことは見栄をはらなきゃねって。お調子者によって地域はできている。夕方ごろ寝をしていたら、どこかの神輿がねっている音で目が覚めた。多分、あそこの反社会的組織の連中だろう。彼奴らは嬉しくてしょうがない。モンモンを見せられるからだよ。嫌な渡世だなぁ。

バスの一番うしろの5人席を4人で座っているというのは良く見る。でも、私はズカズカといって「座らせて下さい」といって真ん中に座る。
 ひとつ横の人が途中でおりた。その人がきつそうに座っていた理由がわかった。私が詰めたら奥に座っていた会社員らしい男が1.4人分くらいを占拠していた。まんなかに他の人を座らせるために詰めた。
 こいつ、それが頭にきたらしい。途中で降りる時に黙ってわたしを乗り越えようとした。「何だ、降りるのかよっ!なんか言えよ!」といった。このバカは黙って降りた。
 あとから考えたら、私が詰める時に、弱々しく「おぉそぉれぇいりぃますぅがつぅめぇてぇくぅだぁさぁいぃぃ」って彦六調でいえばよかった。次回はそうしよう、乞うご期待。


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 面白い番組だった。言葉から九州方面の出身だろうと思った。こういうマクロレンズの世界は大好きだ。しかもタイム・ラプスで粘り強く撮るなんて、本当に尊敬だ。小学生の時に見た、ディズニーの「砂漠は生きている」を思い出す。自分もマクロで撮ってみたい。ところで、なんであの人はいつもジャマイカ・カラーなんだろう。奥さんがつくる野菜の人形ってのがこれまた傑作だった。

 ところがこの番組はなんと2013年の放送だったという。当時82歳だった埴沙萠(はに しゃぼう)は2016年に85歳で他界したそうだ。この作品はDVDになって売られてもいたそうだ。こういう番組はウェルカムだけれど、NHKはBSを一つにしてしまって以降、圧倒的に再放送で時間を埋めている。これで視聴料をしっかり取るのはどうかと思う。だから、不自然なやり方だといいたくなる。

祭りの週末

 今週末はこの界隈は毎年お祭りである。
赤坂日枝神社や、神田明神のお祭りは表の年と裏の年があるんだけれど、この界隈の神社はどこもそんなことはなくて、毎年5月の第三週末がお祭りになる。一番大きな神社がそうしているからだろうけれど、近辺の八幡さまやお稲荷さんも一緒の日程でだいたいお祭りだ。


 年に一度、朝から祭囃子が流れて、浮かれている。つれあいに聞くと、一番大きな神社の氏子町内から通ってくる子達は小学校でも土曜日は早帰りが許されていたんだそうだ。なんともはやだ。それで土曜日は昼前からまだ御霊入れが終わってもいない神輿を大人神輿も子ども神輿も町内をねって神社へ御霊を入れていただきに向かう。各町会の神輿がいっぺんに神社には入れないから、隣の大きなお寺の裏の広場に集まってきて、一つ一つ呼び出されて、神社へ入り、御霊入れが行われる。それから意気揚々と、南部、東部、西部へ分かれて出ていく。


 実はこれで町内へ帰ってきてからが大変。目貫通りを過ぎるまでは担ぎ手も意気揚々なんだけれど、それを過ぎるととたんに見物が減るわけで、意気消沈しちゃうだけじゃなくて、疲れてくるから、一人抜け、二人抜け、減ってくる。今ではそれでも担ぎ手があちこちからやってくるから良いけれど、半世紀くらい昔なんて、担ぎ手が少なくて、途中で抜けたくても、代わりに入ってくれるやつがいない。当時は会社員は土曜日が休みなんかじゃなかったから、少ないわけだけれど、代わりに町内へ営業に来る銀行員なんかが銀行の名前の入った半纏なんぞ作って手伝いで担いでいたものだ。銀行員も楽じゃない。しかし、あの頃の銀行員の給料は目の玉が飛び出るほど高かったから我慢したんだろうか。

 つれあいの実家の商売は日曜日は休みだったが、土曜日はやっていた。それでももうほとんど祭りの週末は商売にはならない。
今週末は気温が上がると天気予報がいっている。深川の真夏の祭りに比べれば、まだ良い方だろうけれど、暑いのは辛い。反対に雨のときも辛い。来月まつりになる鳥越神社の祭りは梅雨に祟られることが多い。あそこの千貫神輿には専用のレイン・カバーがある。