ニュージーランドのテレビを見ていて想い出した。10年近く前にニュー・ジーランドへいった時に、羊の赤ちゃんを見たことがあって、あれはかわいいよねぇ、と今でも話題になる。春先は子羊の生まれるときだったのかなぁ。もう一度見てみたいなぁと。なかなかそうそう簡単にその時期に行かれるわけもない。
小学校4年生の二学期から5年生が終わるまでの1年半在籍した、清水の三保小学校(現在では静岡市立清水三保第一小学校となっている)では校舎の北東のハズレに羊小屋があって、一匹の羊が飼われていた。あそこで初めて羊の糞はコロコロしたものだと知り、隣のうちが飼っていたうさぎもコロコロした糞をするのを知った。(この話はここにもう何度も書いている。)
そういえば三保半島に暮らしていた時期はかなり活発に遊んでいた。折戸湾に面した商船大学の桟橋にへばりついている牡蠣を削ぎ落としてハゼを釣ったり、同級生たちと自転車で久能山へ遠征したり、サツマイモ畑で空気銃でカラスを撃ったりしたものだった。小学校6年生の一年間は岡小学校に通ったけれど、あの界隈は住宅と田んぼしかなかったから、そういう遊びはできなかったけれど、暗くなるまで校庭で無茶ぶつけをしたり、長馬をやったりして遊んでいた。柚木にあった東海大学第一中学校というところへ通ったけれど、帰りに近所の長沼の友だちと一緒になって田んぼのフナを取り、空き缶にそれを入れて家まで持って帰ってきた。小さな庭の池にそれを離してやった。しかし、電車に乗り、駅から自転車で帰ってくるのに、よくそれをこぼさなかったものだ。なんて他愛のない少年だったことだろう。
中学二年生になると同時に東京の中学へ転校してしまったので、それから先は遊びらしい遊びはできなかった。せいぜい土曜日の午後に校庭でフォークダンスをするくらいだったんじゃないかなぁ。わざわざ菓子パンを買ってきてそれを昼飯にして、それから勇躍大きな輪を作ってフォークダンスを踊った。夢中になって踊った。何が面白かったんだろう。別段、好きな女子を目当てに踊ったわけでもないし、そりゃもちろんドキドキしたこともあったかもしれないけれど、誠に無邪気なもので、だからこそ踊っていたんだろう。マリンバで剣の舞を叩きたくて、音楽教室の鍵を借りてひとりで叩いていたこともあった。どこでやっていたのか、全く思い出せないんだけれど、ガリ版を切ってクラスの新聞を作っていたこともある。おかげで学校新聞委員会のメンバーになった。
あの頃の暖房といったら石炭をくべるダルマストーブだった。朝、登板になると細かく割った薪、新聞紙とセットになっている石炭の入ったバケツを取りに行き、当番が火をつけていた。失敗すると教室獣が煙たくなった。良くあれで火事が起きなかったもんだ。
大谷翔平のNHKの番組を録画したのを見た。なんだか嘘みたいな存在だ。
校舎の東の外れにあった石炭置き場で、こんなバケツに自分で石炭を載っけるわけです。あ、ひょっとすると持ちては横についていたか?
季刊「清水」57号が完成したらしい。年末の楽しみだ。