ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

病院へ


 私が通っているクリニックは午前中の受付は午後12時半までなので、正午ごろにいくと空いているよ、という声に送られて出かけた。実は昨日から喉が痛くて、あんまり外へでたくなかったんだけれど、血圧の薬がなくなったからだ。

 ところがついてみると、下駄箱の空きがなかなか見当たらないほどたくさんの人がいる。ほとんどの人が整形外科にかかっている人たちで、内科の人はあんまりいない。だからとても賑やかだ。整形来る人はよく喋る。逆に内科に来る人は静かな爺婆ばっかりだ。


 その血圧は110-70で、全く問題はないんだけれど、10月の下旬に採った血液検査の結果をもらったら、なぜかγgtpがやたら高い。酒なんて飲んでもいないのに。しかもこれまで高かったこともなかったのに。何があったんだろう。


 年内にまた来てインフルエンザの予防注射をしよう。あ、20日にコロナのワクチンを打つ。


白いバラが咲いていた。




     

ちょっと

 ウィンストン・チャーチルの「第二次世界大戦」の「完訳版」としてその第2巻が今年8月に刊行された。
昨年から年に一巻ずつ、6巻刊行されることになっている。

 しかるに残念なことにわが区の中央図書館では、もう何週間も誰も借り出す人がいないまま「新刊本」の棚に、文字通り店晒しになったままである。私はもう借りだしてスキャンした。

 三巻以降蔵書されなかったらどうしよう。6,000円もする本はとても買えない。




     

リズム

 集合住宅に差し込む日差しが日に日に横からになってきていて、地球の23.5度の地軸の傾きを感じる季節になってきた。うまくしたもので、奥まで差し込むようになると、陽射しは弱まるわけで、これが真夏の如き陽射しであったら、とても生きていけない。そして申し訳ないように、太平洋沿岸の関東平野に暮らしているから、冬も雲が垂れ込めるわけでもなく、カラッと晴れて、比較的温暖(今年は特に温暖)に暮らしている。新潟に暮らしている友人からはしょっちゅう羨ましいねといわれる。


 
 かつての私達はいわゆる「生涯雇用」とでもいうような雇用形態が当たり前で、今のように労働者のほぼ45%が非正規雇用労働なんていびつな形態ではなかった。その状態で作られていた高齢年金制度が、こういう労働状況になったらうまく動かなくなるのは当たり前であって、現在の年金制度のアンバランスな有り様は、まさに小泉純一郎-竹中平蔵が作り出したもので、彼らには大きな責任がある。その後も放りっぱなしにしてきた自民党政権には大いに責任があるのにもかかわらず平気の平左を装ってきた、支援者、つまり有権者そのものにも同じように責任はある。
 その根幹には税制が大いに関係してくるわけだけれど、今語られている103万円の壁云々なんぞという大変に限られた範囲の議論では終わらないのであって、法人税を含め、消費税ももちろん絡めた全体的な仕組みを再構築する大手術が必要だ。それを自公維国が真剣に取り組もうとするかといえば、とてもやるとは思えない。自衛していかなきゃならないのだろうけれど、もう私には時間が残されているとは思えない。


 77歳のロイヤル・リムジン社の運転手の月収が60万年を超えると聞いて、タマゲた。


 先週の土曜日に大学の放送研究会が創部70周年記念のパーティーを開いたと聞いた。70周年と聞くと歴史があるんだなぁと思うけれど、私が所属していたクラブだって今年で、多分57年位にはなるんだからとそれほどのことではないじゃない。彼らの部活は媒体はとんでもなく変化してきているけれど、現場自体は大して変わっちゃいないわけで、現役とのつながりも延長線上に存在する。しかし、こっちはもう時代、時代で大きな変わり方をしているから、全然繋がらない。そろそろ集まっておかないとドンドン人がいなくなるんだろうなぁ。

 徳光和夫土居まさる(芸名 本名は平川巌彦)が同期だったとは知らなかった。




     

図書館散歩


 谷中の裏道には時々、この界隈に滞在中だと思われる外国人観光客がそぞろ歩いているところに遭遇するけれど、その殆どは白人で、アジア系の観光客に遭遇することはなかなか稀だ。何か、そういうガイドブックが存在するのかもしれない。


 旅行のガイドブックといえばかつては英語系では圧倒的にLONELY PLANETだった。これは地球の歩き方をはるかに超える草の根ガイドブックで、2008年にアイスランドへ行ったときはガイドブックといえばこれしか入手できなかった。ロンドンのヒースロー空港アイスランド・エアの搭乗時間を待っている間に、ゲート前にいた外国人が同じこのガイドブックを何人か読んでいるのを見た。多分英語でもあれくらいしかなかったのかもしれない。あれから16年経った今では日本語のアイスランド関連ガイドブックは数えられないほど出版されている。中にはCD付きのアイスランド語の「会話・文法」なんてのまで出ているのには驚いちゃう。


 一方日本の旅行ガイドブックの雄、「歩き方」は今ではGakkenから出版されているらしいけれど、中国語でも繁体字簡体字双方で出ているというのを聞いたことがある。台湾の人が香港で出ている「歩き方」は便利なんだといっていたことがある。たぶん中国、韓国、インドネシア、その他多くの国でそれぞれに「日本」の旅行ガイドブックは出ていて、中に書かれていることはそれぞれ違うんだろう。
 そうでないと、牛カツやに並んでいるのはアジア系の人たちばかりだったり、谷中の裏道を歩く人達が白人ばかりの理屈がつかない。



 その谷中の裏道で、珍しくスーツケースをガラガラと引きずっている白人のおばさんを見た。明らかにこれから宿泊施設へ向かっているという風情である。路地の途中で立ち止まってスマホを見ながらぐるぐるあっちじゃない、こっちかなと方向を見定めようとしている。あんまりグルグルしているから助け舟を出そうとすると、「この辺に坂があるはず」とおっしゃる。「ハイ、突き当りを右に曲がって、次の角を左に曲がると坂がありますよ」というと、「やっぱりそうなのね」という風情で急いでガラガラといってしまう。よほど急いでいると見えるけれど、何を急いでいるんだろうか。




 私が途中でいよいよ綺麗に染まった紅葉にレンズを向けたりしてウロウロしている間にも、そのおばさんはガラガラと坂道を下り、私が坂の下に降りてきた頃には、もうすでにどこかへいってしまって、どっちへいったのかわからなくなった。ひょっとすると今朝まで泊まっていた宿舎になにか忘れ物をしてきて、慌ててそれを取りに行ったのかもしれないし、あるいは永年別れていた兄弟と会えるチャンスが迫ってきていたのかもしれない。それじゃまるでテレビ・ドラマだけど。




 パンを買って帰ってきた。そろそろ医者に行ってインフルエンザの予防注射をしたほうが良いかもしれないなぁ。








    

今日はなぁんもせんかった


 ニュージーランドのテレビを見ていて想い出した。10年近く前にニュー・ジーランドへいった時に、羊の赤ちゃんを見たことがあって、あれはかわいいよねぇ、と今でも話題になる。春先は子羊の生まれるときだったのかなぁ。もう一度見てみたいなぁと。なかなかそうそう簡単にその時期に行かれるわけもない。

 小学校4年生の二学期から5年生が終わるまでの1年半在籍した、清水の三保小学校(現在では静岡市立清水三保第一小学校となっている)では校舎の北東のハズレに羊小屋があって、一匹の羊が飼われていた。あそこで初めて羊の糞はコロコロしたものだと知り、隣のうちが飼っていたうさぎもコロコロした糞をするのを知った。(この話はここにもう何度も書いている。)

 そういえば三保半島に暮らしていた時期はかなり活発に遊んでいた。折戸湾に面した商船大学の桟橋にへばりついている牡蠣を削ぎ落としてハゼを釣ったり、同級生たちと自転車で久能山へ遠征したり、サツマイモ畑で空気銃でカラスを撃ったりしたものだった。小学校6年生の一年間は岡小学校に通ったけれど、あの界隈は住宅と田んぼしかなかったから、そういう遊びはできなかったけれど、暗くなるまで校庭で無茶ぶつけをしたり、長馬をやったりして遊んでいた。柚木にあった東海大学第一中学校というところへ通ったけれど、帰りに近所の長沼の友だちと一緒になって田んぼのフナを取り、空き缶にそれを入れて家まで持って帰ってきた。小さな庭の池にそれを離してやった。しかし、電車に乗り、駅から自転車で帰ってくるのに、よくそれをこぼさなかったものだ。なんて他愛のない少年だったことだろう。

 中学二年生になると同時に東京の中学へ転校してしまったので、それから先は遊びらしい遊びはできなかった。せいぜい土曜日の午後に校庭でフォークダンスをするくらいだったんじゃないかなぁ。わざわざ菓子パンを買ってきてそれを昼飯にして、それから勇躍大きな輪を作ってフォークダンスを踊った。夢中になって踊った。何が面白かったんだろう。別段、好きな女子を目当てに踊ったわけでもないし、そりゃもちろんドキドキしたこともあったかもしれないけれど、誠に無邪気なもので、だからこそ踊っていたんだろう。マリンバで剣の舞を叩きたくて、音楽教室の鍵を借りてひとりで叩いていたこともあった。どこでやっていたのか、全く思い出せないんだけれど、ガリ版を切ってクラスの新聞を作っていたこともある。おかげで学校新聞委員会のメンバーになった。
 あの頃の暖房といったら石炭をくべるダルマストーブだった。朝、登板になると細かく割った薪、新聞紙とセットになっている石炭の入ったバケツを取りに行き、当番が火をつけていた。失敗すると教室獣が煙たくなった。良くあれで火事が起きなかったもんだ。


 大谷翔平NHKの番組を録画したのを見た。なんだか嘘みたいな存在だ。


 校舎の東の外れにあった石炭置き場で、こんなバケツに自分で石炭を載っけるわけです。あ、ひょっとすると持ちては横についていたか?











 季刊「清水」57号が完成したらしい。年末の楽しみだ。






     







    



    
     

5,800

 お天道さんが当たる側を選んで歩く季節になった。ついこの前までは反対側を歩いておった。こうして商店街はまんべんなく一年を通して歩くことになるわけで、世の中大変にうまくできているんだなぁと思う。しかしながら、なんでこんな狭い歩道の中に自転車で入ってくるのか、その神経がわからないねぇ。



 ちょっとそこまで用足しだけにに出たつもりだったのだけれど、もうちょっと歩こう、と思っているうちに、隣の駅までやってきてしまった。帰りはバスに乗ろうと思ったんだけれど、ふたつ目の停留所まで来たらやたら混んできたので、とっとと降りた。一軒目のスーパーでランチを買おうと入ってみたが、思うようなものもなく、とうとううちの近所まで帰ってきたので、助六を買って、それで昼飯にした。



 5,800歩ばかり歩いただけなのに、もう疲れておって、助六と味噌汁で昼飯を終え、テレビを見ていたら眠くなり、ゴロッと横になったらなんと4時間も寝た。もっとも朝も4時間ほど寝ただけだったから、これで合わせて8時間ほど寝ているんだけれど、これでまた夜中は眠れなくていつまでもゴロゴロと録画やネットを見ていることになるんだろう。


 昔「チロリン村とくるみの木」という指人形劇をNHKのテレビで夕方放送していた。
ウィキペディアで見ると「1956年4月14日から1964年4月3日まで」と書かれている。私が小学校の3年生から高校一年生の時期に相当する。概ね18時頃からの放送であったらしい。あとから考えると、かなり面白い人たちが声優を務めていたことがわかる。黒柳徹子(ピーナッツのピー子)、里見京子クルミのクル子)、横山道代(タマネギのトン平)の三人は当時良くNHKに出ていて、自分にも、あぁあの三人だなとわかっていた。脱線トリオも出ていたし、売れっ子の楠トシエ辻村真人、武智豊子、太宰久雄益田喜頓、はせさんじ、逗子とんぼなんてところも出ていた。熊倉一雄が出ていないのが意外だね。
 今でも忘れられないのは、サングラスをかけ、テンガロンハットを被り、馬に乗って登場する「ニンジン・レッド」さんだね。声も覚えちゃいないけれど、彼のテーマ・ソングも部分的に覚えていようというくらい印象的だった。
 こんなことを急に思い出すようだと、この先はそれほど長くはなさそうだね。ふふふ。


 売り物と思しきお稲荷さんの狐一対。









     


    

動かず

 どうということもないのだけれど、晴天なれど出かけなかった。

 二ヶ月も先の旅行のことが気になっていて、なかなか体がほぐれないような気がするなぁ。
明日は図書館へ行こう。


  いつも近くにいる人はいつまでも近くにいると思っていたら大間違いらしい。