ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

バス事情

先日、フィンランドの方とご結婚された日本人の女性が一時帰国されて、久し
ぶりにお会いした。
その時に大変に興味深いお話をお伺いした。
彼女は数年前に旦那さんのお仕事の関係で2年ほど日本で暮らしている。
ちょうど子育ての真っ最中で、フィンランドでの子育ても、日本での子育ても
両方とも経験している。


ある日、幼児をベビーバギーに乗せて渋谷の駅から都バスに乗った。
たまたま低床のバスであったので、ついフィンランドにいる時の感覚のままバ
ギーにわが子を乗せたまま乗車。
フィンランドでは幼児連れだと公共交通機関はただなので、そのまま中に入ろ
うとすると「お客さぁ〜ん、お金払ってください!」とマイクを通して云われ、
思わず苦笑しながら、「済みません」と運賃を払った。

すると運転手の他になぜか乗っていた、「指導」と書かれた腕章をした都バスの
職員が「バギーは他のお客さんにご迷惑になりますからたたんで下さい」と要望。
始発の乗客はまだバラバラの状態だったという。
バギーをたたむと云うことはバギーに座っているわが子は一度立たせなくてはな
らない。
でも、まだ歩けやしないわが子を抱えなくてはならない。
ということは必然的に片手にバギー、片手にわが子を抱えることになる。
これで、どうやって彼女はどこかに掴まることができるのであろうか。
実はフィンランドではバスの中にこうした人のためのフックが設けられているのだ
そうだ。

そこで、彼女は現場ではらちがあかないと都庁の交通局へ苦情を申し入れた。
実は彼女の旦那さんは公的機関の公僕である。
それが影響したのかしないのかは判明しないが、後日彼女は交通局から「お話をお
伺いしたい」と連絡を受けて都庁に出かけた。
するとそこにいたのは都が関係している交通機関すべてから人が来ていてなんと6-7
名が集まっていた。
つまり、バス、地下鉄、都電の担当者である。
彼女はその仰々しさに驚きながらも実状をつまびらかに申し上げたそうである。
これだけ聞くと都交通局はとても素晴らしい対応である。

ここまで聞いていて、「じゃ、今はバギーやその他の荷物のためのフックか何か
が設備されていたんだっけ?」と思った。
そんなものを見つけた記憶のない都バス利用者としては当然だ。
ところが、その後の対応はご丁寧なお返事をいただいたものの、現状では仕方が
ないという結論でしかなかったというのである。
ならば、なんのためのヒヤリングだったのか。

交通機関のマネジメントで働いている人たちはその圧倒的多数は男性である。
日本がいくらかつてに比べて女性の職場進出が圧倒的に増えているとはいえ、ど
うしても男性の感性でしか物事を判断できない。
その証拠に、すべての交通機関の空調は男性、それも背広や制服を着込んだ人た
ちを基準に設定されていることは明らかである。
夏の真っ盛り(今はすでにそうだけれども)の服装(このトロピカルといっても
良い日本の真夏だったら、半袖シャツでしょ?)で乗り込んだら、直ぐに寒くな
るほどだ。
しかし、背広を着た人たちにとっても「やれやれ、や〜涼しい!」という温度に
なっている。
この温度は高齢者や子供にとっても寒い、と断言する。
それで皆さんどうしているのかといえば、長袖の羽織るものを持って歩いている
のである。
これ、常識。
なんでこんなことになるのだろうか。
つまり、男がマネジメントしているからに他ならない。

より多くの人間がより良い状況になることを正しい事とするのか、従ってマイノリ
ティーと云うべき少数派は二次的検討対象であるのか、という議論はすでに19世紀
から続いている。
限られた社会資源を用いてできるだけ多くの利用者へのホスピタリティーを実現し
ようとするとどうしても少数派のニードには対応がしたくてもできない、という説
明は多くの場合説得力として行使される。

すると経済の発展なくしては多くのホスピタリティーは実現されないのだ、という
論理に陥る。
そしてこの論理は大手を振ってまかり通ってきた。
実際にそうか、という点については人は多くのエネルギーと時間を費やす事はない。
多くの公的機関はその予算に限定された範囲に於いてのみ検討をする事になる。

ならばどうするのか。
そこに行政府の根元が存在する。
にもかかわらず、多くの国家的公的機関もまたその予算内のみが権限であり、義務で
あると考えるのみである。
すると、この種の国家では予算によってその思想も理想も限定される事になる。

こうなると、「企業もいろいろ、社員もいろいろ」とふざけているような行政府で
あれば、理想を語る思想が育つわけがない。
これが「未熟な民度」というものなのだという事なのではないか。
それではこれは一体全体、誰が考えなくてはならないのだろうか。
結論から申し上げると、それは一人一人の国民なのである。

「企業もいろいろ、社員もいろいろ」首相を選出したのは誰か。
それは与党の総裁として選出したその党員なのかといえば、実はそうではないだろう。
そんな政党を支持している国民一人一人なのである。
それは具体的に云えば選挙での投票行為に先端的に表れるわけである。

今回の参議院選挙では「いろいろ」おじさんの党は改選議席を二つ下回っただけだ。
なんだかんだいってもそれだけだ。
しかも、戦後下から数えて四番目の低投票率である。
全国レベルで56.57%、最低の茨城県では50.07%であって、なんと二人に一人は投
票すらしていないのである。
これは明確に民主主義を放棄しているという他はない。
「棄権も意思の表現のひとつである」という繰り言を云う人もいる。
これは全くの間違いである。
自分は現政権を支持しているから、変える必要があると思っていないから、棄権する
という人もいる。
じゃ、かつてのように「いろいろ」政党が政権与党から滑り落ちた選挙のような事が
起きた時は何というのか。

これまた「民度」なんだろうけれど、一朝一夕にこれが変わらないところが、これま
た「民度」のなせる技なのではなかろうか。