ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

インタビュー

 西武新宿線に乗って西を目指す。ここのところ西武系の電車に乗る。先日も池袋線に乗った。来月もまた乗る予定である。考えてみるとそれぞれ高田馬場、池袋から特急から快速から、様々な種類の電車が出ていて駅に行ってみると一体全体どの電車に乗っていいのか一目瞭然とならない。うろうろとどこかにそれがわかる掲示はないものかと捜す。若いころはそんな利用し慣れていないおじいちゃんやおばあちゃんを見ると、もう既に社会性を失ってしまったんだろうなぁ、邪魔くさいなぁ、と思ったりしたものだ。ところが自分がそんな立場になってみると、そんなの当たり前のこと。しかも次から次に知らなかった鉄道が動いていて一体全体どこからどう通ったらどこに行くのかがわからない。そこへ行くと西武線は昔から走っているのだからおおよその予測はつく。心配なら各駅停車に乗りさえすればどんなに時間がかかっても目的地には到着する。
 降り立った駅は(比較の問題だけれども)まだまだ武蔵野のかけらをその辺に引っかけているという程度には残している。しかし、お約束の駅頭には店らしきものは一切見えない。それでもお会いしてから向かった先にはファミリー・レストランがあってそこでドリンク・バーを頼んで興味深い話を一気に伺う。気がついたらコーヒーは2杯しか飲んでいない。それでも時間はとうとう3時間経ってしまう。
 アジア太平洋戦争に敗れてから初めて、1952年に豪州へ行った日本商船「おりえんと丸」(当時の所属:第一汽船)に通信士として乗船したおられた方である。その時点では乗っておられなかったというお話だったが、その次の航海に乗船されておられたそうで、その後様々な船に乗られて豪州各地に入港されたという。それぞれの港について様々な想い出を持っておられる。

日本語

 南豪州のある港に特定の積み荷をとるために年間に10航海ほどしていた頃、現地で知り合った銀行家の家に招待された。その銀行家が片言ながら日本語を喋った。しかし、その言葉の使い方が甚だ傲慢で、とうとう「そんなしゃべり方や態度をすると、相手からいやな奴だと思われるからやめた方がよい」と忠告した。すると、彼がびっくりすることをいったというのである。その銀行家はシンガポールに将校として暮らしていた頃、日本軍が進駐してきて捕虜となり、日本軍の捕虜収容所に収容され、日本軍の将校に甚だ侮辱的に処遇された。ところが日本が無条件降伏をして、今度は立場が大逆転。戦後の元日本兵収容所で今度は管理する側に回ったのだというのである。この時、自分に傲慢な態度と日本語で接していた日本軍将兵の態度、日本語をそのまま使ったけれど、誰も何も云わなかった。勿論云える元日本将兵はいなかったということだろう。だから、彼の日本語、態度はそのままになってしまったというのだ。
 しかし、その後その後銀行家のオージーが日本にやってきた時に、たまたま一緒になった日本橋の商社マンから聞いた話は、彼のその日本語のしゃべり方とは全く裏腹な、意外な話だった。その商社マンの方の弟さんはその戦後の元日本将兵の収容所に収容されていたのだけれど、そこで亡くなってしまった。ご本人は全くそんなことは思われなかっただろうが、今の私から見ると戦争中には命拾いをしたのにもったいないことをしたと思う。するとその弟さんの遺品に収容所長からの丁寧な手紙が添えられて届けられたというのである。ご自分が戦時捕虜として収容されていた時にはそんなに傲慢な態度で対応されていたにも拘わらず、ご自身が収容所長の時にはその報復一辺倒にならずに、こうした余裕を持った対応が出来るというのは一体なんなのだろうか。

中古車輸入

今では多くの日本車が日本から東南アジア方面を中心に輸出されていると聞く。中には盗まれた車を様々な手段を使って輸出してしまう奴までいるらしい。ところが、戦後まもなく、ホノルルからたくさんの中古車が日本に輸入されたという。その中古車輸入を戦後初めて実現させたのは、ロッキード事件で「記憶にございません」で通しきってしまったあの小佐野某だという話だ。なんせ田中角栄とつながる彼だから、誰もがその有罪を疑わなかったけれど、控訴中に死亡。それにしても長い裁判。彼は戦後なんとも不思議な人知れぬ動きで事業を拡大。ハワイにはその資金はどこから出たのかと揶揄されるホテルを幾つも買い取っている。車とホテルの小佐野某の面目躍如である。ところでスターウッド・ホテル&リゾート国際興業の関係は一体どうなっているんだろう。