ほぼ足りてまだ欲 その先

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延命

 近頃話題なのは「チューブに繋がれても生きていたいですか?」だろう。そうした話題がテレビ、新聞、雑誌で取り上げられる時、その基本にある論調は「チューブに繋がられずに死んでいくことがトレンドじゃね!?」という雰囲気だ。
 「いや、どんなことがあっても、どうしたって、どうにか動いている時はそれを保ち続けてくれ!ひょっとすると戻ってくるかも知れないじゃないかっ!」なんていい方は格好良くないってことになりそうだ。
 確かに口にも鼻にも、気管も、そして胃に穴まで開けて管が突っ込まれているけれど、もう意識がないという状況は一体全体生きているのか、もうほとんど死に体となっているのか誰にも判断が付かない。その点滴の中に筋弛緩剤を投与して死に至らしめるのは殺人だし、人工呼吸器のスイッチを切ったら殺人だということになるんだけれどね。
 見るに忍びない気持ちはあるけれど、だからといってあとから「あぁ、自分がこの手で引導を渡してしまったのだ」と悩み続けながら余生を送るのも耐えられないものがあるように推測する。いや、多分あいつは感謝してくれているだろうと考えて暮らすことができる人もいるかも知れない。
 自分がそうなった時は、多分もう意識なんてないわけだからどうしてくれてもかまわない。しかし、そう言い残すと、最後の決断を人に押しつけるなといわれるだろう。だから、そんなことをしなくても意識がなくなっていたら、もうそのままにして「ブルブル、ブルブル」っと震えて事切れるのを見ていてくれ、といっておこうと思っている。
 しかし、ここに大きな壁が立ちはだかる。救急車で救急病院に担ぎ込まれたらICUに入れられる。こうなると医者は意識不明のまま運び込まれた患者から管を外すという行為に及ぶわけにはいかなくなってしまうのだ。
 となると、救急車では運び込まないでくれということになるのだけれど、まさかそんなことになるとは思っていないで運び込まれちゃうってことだってあるわけで、今回のこの症状はそんなことになっちゃいますから救急車を呼ぶのを止めようだなんて判断を一体誰ができるというのだろうか。
 こうなると現実的には選択の余地なんてないということにならないかなぁ。