ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

NHKアーカイブス

 日曜日の総合テレビジョンは夜中に昔の番組を加賀美アナウンサーの紹介で放送する。一本目は海底の戦艦大和潜水艇で調べた20年前の番組であり、二本目は人間魚雷「回天」で出撃した兵士から託された手紙をその遺族に配達する表装やさんの話、1969年の番組だった。
 私が両方の番組から共通に受け取ったメッセージは「疑問を持たずにたたき込まれた価値観はまっすぐそのまま人を走らせる」ということだった。
 2700名を超える乗組員たちは船と命をともにすることによって国に対する忠誠心を果たしたのだろうか。火薬庫に誘爆したというから瞬時に亡くなったのだろうか。
 戦闘機による特攻も、ロケット爆弾「桜花」も、人間魚雷「回天」も、ただただひたすら国を憂い、国を守ることによって愛するものを守る自己犠牲的国家愛に基づくものではなかったか。そうしたノリ(そんな軽薄な言葉で表現するなといわれるだろうが)が分からないことはない。わたしにしてもそうした意識は至る所で現出するからである。ひたすら黙々と叩き続けるキーボード作業だってある意味そんな様相を含んでいないとはいえない。そんなものとあの荘厳な国を憂える気持ちとを一緒に語るなという声も聞こえてくる。しかし、その根は繋がっていないか。
 国を守るという言葉が当たり前のこととして語られる。ありていにいえば「国」という線で囲まれた特定の地域をわが所有として排外するという思想だと思う。その前に考えるべき思想があると思う。これを云うとかならず「世の中きれい事では終わらない」という。拝外思想を構築すると世の中の流れを誘導するのはいとも簡単になる。「選民思想」はその機動力となる。明治革命からほんの20-30年で選民思想を獲得した、またそのように持っていくことに成功した流れは一体どの様に行われたのかと思いを致す。
 どうしたら知らず知らずのうちにのっぴきならない自己犠牲の価値観を植え付けることができるのだろうか。そしてそれは今の「心のノート」や「小林よしのり」等々の積み重ねによる活動と軌を一にするものなのだろうか。どこを警戒したらそうならないで済むのだろうか。人は公共の利益のためであれば自己の欲望を否定しなくてはならないのだろうか。それを認めると電車の中の携帯電話を容認しなくてはならないのだろうか。