ほぼ足りてまだ欲 その先

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「ひと」

 同じ日の朝日新聞に{米国でビジネスを学ぶ留学生に奨学金を贈る日系2世 ー 野沢君子さん(89)」という記事が同氏の上品な笑顔の写真とともに掲載されている。自分の記録のために全文引用する。

 東京・六本木で10月末、かつての留学生に迎えられ、「まぁ、今どうしているの」と懐かしそうに声をかけた。
 カリフォルニア大学ロサンゼルス校のビジネススクールに入学する日本人留学生に奨学金を贈る。2世だった夫の野沢穣二さんが、「日米の懸け橋になるビジネスマンを育てたい」と構想し、2人ではじめた「野沢フェローシップ」だ。20年間で29人。国内外の企業で活躍している元奨学生らに招かれ、来日した。
 穣二さんは、米国で電気炊飯器のセールスをしていた。日系人社会の人脈を生かし、炊飯器を抱えて一軒ずつ訪ね歩く。当初は使い方が分からず火にかけた人もいたという。それでも次第に評判が広まり、会社を設立。84年までに100万台を売った。
 夫の死後、会社はたたんだが、「多くの人に助けられたお返しをしたい」と、奨学金を続けてきた。今も選考に携わり、毎年、合格者をロサンゼルスの自宅に食事に招く。
 じょうじさんとであったのは太平洋戦争末期のカリフォルニア州日系人強制収容所だった。君子さんは姉と妹とは別の収容所に入れられ、馬小屋で3度の冬を越した。日本に戻っていた母は、故郷の広島で原爆に会い、亡くなった。
 日米のはざまで生きた戦時下の記憶は、薄れていない。「今の若い人がうらやましい。努力さえすれば道が開ける時代になったのだから」
文 宮地ゆう、写真 加藤丈朗

 国外の日本人社会、日系人社会に関心のある私にとってははなはだ興味深い記事。しかし、野沢さんは今でも奨学金を提供しているのであり、それが20年前からだとしたら1985年頃からの話となる。強制収容所、電気炊飯器という言葉とUCLAの日本人留学生という言葉を並べるとなんだか50-60年代の話のような気がしてしまう。バブル期を含む20年間の留学生の話の様な気がしない。
 「ナンバーワンだ!」と誇らしげに叫んでいた日本社会から米国の大学に留学する人たちにそれでも母国からは金が出ず、彼の地の先輩から奨学金を提供してもらっていたのかと思うとなんとも釈然としない。こうした支援の発想の原点は血の問題、つまり民族の問題ではなくて、文化の問題だということを現すのか。
 「努力さえすれば道が開ける時代になった」という言葉を考えてしまう。このままの言葉を氏が口にされたとすると、当時の米国ではどんなに日系の若者がやろうとしても押し込まれていて、そして民族的差別があって、実行することが全くかなわなかったという意味だろう。しかし、今のこの時代は民族的差別がまず前提に存在しないという大いなる相違があるといいたいということなのだろうと思う。
 しかし、残念なことに今の日本の経済社会、文化ではいくらやりたいと思っても千三つの世界に飛び込むくらいしかドリームは存在しない。そのフィールドが今はITと呼ばれる分野であるわけだ。つまり安定的打開策としてのシステムが存在していない。UCLAに留学するくらいの人たちは既存のヒエラルキーの中で安定的にその立ち位置を見つけることができる。保証されているといっても良い。しかしながら多くの若者にとってはとんでもなく遠い話である。なにしろ大卒の就職内定者が6割であって、それでも前年を上回ったという時代だからだ。
 こうした頭の下がる活動をされている方の気持ちは大変に大事で、そのお気持ちも高く評価されるべきである。しかし、その支援を受けた留学生諸氏がどうされているのかを知りたい気になる。