ほぼ足りてまだ欲 その先

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つぶあんv.s.こしあん

 ザ大衆食つまみぐいさん経由で天野祐吉さんがブログに「つぶあんv.s.こしあん論争」を横尾忠則さんと闘わす、というエントリーを掲載していることを知る。つぶが田舎でこしが都会というのがつまみぐいさんの見解のようで(お父さんとお母さんのお話も興味深いけれど)ある。「料理王国」誌2002年11月号の天野・横尾論争を読んでみたい。
 というのは私は驚異の「漉し餡」派であり、あんぱんも最近ではどんどん妥協できなくなっており、決して粒餡のあんパンを手にすることはない。何も知らない周囲の人たちは「あいつはいつ見てもあんパンを抱えている」として、プレゼントといってあんパンを下さる方もおられるのだけれども、往々にして粒餡である。どうやらあんパンをそうした観点で見ておられる方が普遍的でない傾向がある。私も昔はどちらでも良い、敢えていうならば漉し餡という具合だったような記憶があるのだけれども、親から離れて暮らすようになって(といったらもう既に35年になんなんとするのだけれども)この方すっかり漉し餡である。
 この論争をかわす宿敵がひとりいて同じ年齢の研究者の方である。人の顔さえ見れば“漉し餡にはメリットが何もない。重要な部分をすべて捨ててしまうという愚挙である”とのたまう。私はメリットを求めてあんパンを食するわけではない。もし、それが重要なんだとしたら、あんパンは薬であり、プロテインなのかといいたい。そもそも小豆を潰した滓をそのままのみこんで喜んでいる、その気色の悪さが理解できない。大豆であったらそんな絞りかすは家畜の飼料である。彼は鹿児島だったか、沖縄だったかに属する島からやってきている。それにしたってもう関東に暮らして40年は経つわけでそっちの方が長い。いつまでも旧弊に縛られていてはいけないと応酬しているのだけれど、どうやら彼は引退したら島に帰って鍼灸師をしながらゆったりと暮らしたいといっているので、そこだけですべてを許してしまうのだけれども、それはどういう意味かと迫られることだろう。