ほぼ足りてまだ欲 その先

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お約束


 {写真:ハルシュタットカトリック教会入り口に掲げてあるお願い。自分からkindlyっていっちゃうってのも凄いな。}
 近頃は旅に出るにしてもやたらとパックト・ツアーに乗ることが屡々で、かつての自分にしてみたら嘘のような状況に参加してしまうのだけれど、なんでそんな旅をするんだよ、ということになるのだけれど、これが実に効率的だからなのだ。しかし、この歳になってなにもそんな効率化を図らなくても良いじゃないか、というようなものなのだけれど、どうも残された時間が限られてきているかも知れないという恐怖心がそこにあるからなのかも知れない。どうせなら人様のために時間を使うという方が人間的に優れた思考ということになるのだろうけれど、どこまでも我が儘で、どこまでも自分本位にしか世間を考えることができないというのが自分の本性なんだろうなぁと侘びしいものがないでもない。
 私が参加することができるようなパックト・ツアーはもうすでに高齢となった人たちが参加するようなものなのだけれど、この種の旅にはどうも一様の傾向があって、日本人は同じような傾向を呈するということになるのはどうしてなのか、それはひょっとすると情報量が少ないからなのか、判断基準がとても狭いからなのか、不思議なものがあるのだ。
 多くの人たちは必ず帽子を被り、必ず山屋さんが好んで穿く軽くて撥水性のある山道具屋で売っているズボンを穿く。誰もがデジカメを振りかざし、みんなで一斉に同じ方向に向かって写真を撮る。誰彼と肖像権やらプライバシーを考えることなく他人を撮影しようとする。鞄は必ずハードケースでベルトを巻く(あのベルトは一体なんの役にたつのか。見分けやすくするためか。でもあれだけ全員が巻いていたら意味がなさそう)。私はソフトケースだけれど、実は未だにベルトで巻いている。巻かないとそのうちパンクしそうな気がするからだけれどね。私は帽子を被っているけれど、それは普通の時も四六時中被っている。私もデジカメを振りかざしているけれど、それはこの時だけでなくて、四六時中だったりする。
 つまり、私も同じような行動をする人間の一人なんだけれど、団体旅行というのは昔からなぁ〜んにも変わっちゃいない、ということなんである。ただかつてから唯一変わったなと思えるのは、多少は聞き分けが良くなったかなぁというところだろうか。大顰蹙を買うことは少なくなったかも知れない。
 他国のパックト・ツアーを見ていてもやっぱりその共通性には気づかされる。中国人の団体は歩いてくる遙か向こうからすぐにわかる。東洋人の団体で話し声が大きければそれは中国人である。白人の団体で話し声が大きければそれは米国人であることは昔とあまり変わっちゃいない。どうも米国人団体も中国人団体も世の中は自分達を中心に廻っていると思っているという共通項があるのかも知れない。ちょっと乱暴な見解だけれどね。韓国人の団体はあまり判然としない。日本人の団体と紛らわしい。ただし、若い人たちの団体が結構目立つ。それも女性だ。姿形がかっちりと決まっているから分かり易いが、その点では日本人の若い女性と区別がつきにくい。中国人の若い二人連れは男が高性能のカメラを抱え、女をあれこれポーズをさせて撮影するからすぐにわかる。そして相当に女性が自信を持っている風情が窺えるのが共通点か。このあたりはかつては見られなかった光景で、中国が急激に経済成長をしており、尚かつ経済格差が大幅に広がっていることが推察される。日本人と中国人は教会について宗教的な施設であることに対する配慮が全くなくて、バシャバシャと礼拝中でも平気でフラッシュをたこうとする。あまりにも無礼で、現地で嫌がられてもそれは無理がない。集団になると自己の判断力が突然麻痺してしまう様に見える。配慮が足りない。
 それが嫌なら自分で旅に出ればよい。交通機関を自分で調べ、手配をし、接続時間を我慢して荷物を自分でコントロールしていけばよい。それを厭うならば、そりゃパックト・ツアーに入るしかない。