ほぼ足りてまだ欲 その先

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岡山

 私は横浜の生まれだけれど、わが両親は岡山の出身だ。で、なんで横浜なんかで私が生まれたのかといったら、オヤジが「大学は出たけれど」の時代に東京の大学を出て、ようやく就職できたのが横浜の会社だったからだ。
 だから、私は岡山で暮らしたことはない。それでも親の故郷は両方とも岡山だから子どもの頃は結構頻繁に行き来があったものだ。新幹線ができるまでは岡山から横浜へは夜行急行の「瀬戸」に乗ってくるのが一般的だった。あの急行は横浜に明け方に着いた。だから、朝起きるとおふくろの母親である「おばあちゃん」が到着していたという記憶がある。私たち子どもも夏休みに「瀬戸」でえっちらおっちら岡山まで行ったものだ。大阪から先は山陽本線で、蒸気機関車が引っ張っていた。瀬戸内海に近づいたり、はなれたりあの当時の汽車の窓から見る景色は実に楽しかったような気がする。それはゆっくり流れていったから、見る余裕があったということでもあるだろう。何しろ今時は新幹線の窓の外はビュンビュン飛んでいっちまってずっと遠くの山ぐらいしきゃ見えやしない。
 オヤジの実家は宇野線の小さな無人駅(昨日今日無人駅になっちゃった訳じゃなくて、ずっと昔からの筋金入りの無人駅)のすぐ傍だけれど、おふくろの実家は吉備津線の大きな神社の傍だった。昔は両方をいったり来たりするのは岡山駅まで出て行って乗り換えるというぐるっと回らなくてはならなかったので、随分離れているのかと思っていたら、大人になって行ってみたら、車だったら最短距離をズイッと直行してしまうことができて、意外に近くて驚いた。
 しかし、私たちはおふくろの実家にばかり泊まっていて、オヤジの実家に泊まった記憶は全くない。それはなんでかというと、オヤジが実家の次男で、明治の農家の次男は家から出ちまうわけだから、そこに全く居場所がなかったということもあるだろう。しかし、オヤジの両親はとっくにいなくて長男の時代になっていたからなのだろう。そのオヤジの兄貴である、私にとっての叔父さんを私が覚えているのは、すでにその叔父さんが脳梗塞の後遺症で椅子に座ったままだった。つまりオヤジとオヤジの兄貴とは随分年齢が離れていたのだ。その叔父さんとは全く交流がなかったけれど、その長男、要するに私の従兄弟は随分足繁く横浜にやってきた。
 その従兄弟はうちの親父のことを「おじさん、おじさん」と呼んで慕っていて、どうしてなのかと思ったら、オヤジが私たちを巻き込むことがなかったのだけれど、結構足繁く実家に立ち寄っては甥っ子を援助していたのだそうだ。
 彼がわが家とオヤジの実家の橋渡しとなっていたようで、オヤジが死んだ時に、すぐさま彼に連絡をして実家の菩提寺から横浜の寺を紹介して貰った。何しろうちの親父はいわゆる分家だから、そんな縁がなかったわけだ。しかもなぜか子どもはみんなミッション系の学校にいってしまって仏教に全く関心がなかったこともある。
 おふくろの方は妹と二人姉妹で、姉なのに嫁に出てしまったわけで、家に残った妹は養子をとった。その私にとっての叔母さんは岡山の内陸の出身にしては西洋風な顔立ちをした人で、その母親に生き写しだった姉とは随分雰囲気が違った。だから一人息子の私の従兄弟も子どもの頃からなんだか日本人離れした顔つきをしていた。この家は今は彼のお嫁さんが一人で暮らしている。彼は50歳くらいの時に、新年会の帰りに岡山の駅で心筋梗塞を起こしてあっけなく逝ってしまった。その葬式があの阪神淡路大地震の前日だった。
 春になると岡山を思い出すのはどうしてなんだろう。岡山というと黄色っぽい地面とお味噌と黒い柱のおふくろの実家が必ず思い浮かぶ。玄関の横に牛がいた。ミカンの皮を投げると牛が食べるのが面白かった。納屋の上に梯子であがるとかくれんぼができた。