ほぼ足りてまだ欲 その先

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クラッシック

 音楽のジャンルとしてのクラッシックは私にとってずっと遠かった。多分、この分野に気がついたのは中学生の頃、高校受験を意識した時だろう。当時の都立高校の入学試験というものは全9教科が実施されていて、音楽ももちろん試験があった。唄うとか弾くとかなんてあるわけはないからペーパーテストだった。中学三年になったらそのための毎日みたいになっていたから、唄う、という行為が中心にはない音楽の授業だったようだ。なにしろ8小節ほどの音符を見て、この曲は誰の何という曲か線で結べ、みたいな問題だった。今になればどうにかわかるかもしれないけれど、何しろクラッシックの音源だってそんなに聴いたことがあるわけもないし、読譜訓練なんてほとんどされたことがないんだから、わかんない。美術も保健体育もそんな試験が出たんだから、今から考えてみたら、本当に霞ヶ関の「学業優秀」なる高級官僚がやっつけそうな話ではある。
 高校に入ったら音楽の先生が特攻帰りの大きな先生だった。あの先生じゃ、ぺらぺらの戦闘機じゃ持ち上がらなかったんじゃないかと思うほど大きな人だった。高校は元高等女学校で、合唱部がコンテストに強いくらいで、薄暗い音楽室にはピアノの練習個室が2-3あって、広い部屋だった。しかし、入学するやいなやガイダンスがあった時に、バッハやベートーベンの陰気くさい顔がはってあったりして、非常に権威的でイヤだった。すぐさま当時流行のエレキに手を出して、それからこの方、聖歌は歌えども、クラッシック方面には目を向けたくはなかった。
 リズムが一定しない、気取った歌い方、わざとっぽさ、古くささなんて思って毛嫌いをしていた。
 しかし、それは旧態依然たる権威感を嫌っていたということのような気がする。それははっきりいって、学校教育が間違っていたからだと断定しても良いのではないか。今になってみると、演者の素晴らしさ、作曲者の緻密さ、センスの良さ、というものに全く着目していなかったということのような気がする。そういう点に気づかせる教育というものが全くなかった結果だろう。
 しかし、同じ音楽教育を受けたものの中に早くからクラッシック音楽に対する取り組み姿勢が違っていた人たちはいくらでもいるわけで、それを考えると教育のせいにするのはおかしいじゃないかという反論が出てくるだろう。
 私たちが子どもの頃家にピアノがあるうち、そのピアノを使って子どもに音楽教育を施していて家庭というものの割合をはかる手立てはないけれど、それは明らかに家庭の財力と一致していた。つまり、教育というものはすべからく、家庭の力に大いに依っているのは明らかだろう。
 話が、急に現在に返って来ちゃった。貧困は良き教育を与えないのだ。それを無視する現政権を叱る。