ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

nsw20722006-08-05

 人は自分の身内が死ぬと、驚天動地で嘆き悲しみ、いつまでも落ち込む。ひとりひとりの目を見ながら何人もを殺した人間の罪を「異常な」犯罪と表現する。しかし、相手の見えない状況で殺人道具をぶっ放し、何人、何十人と人を殺している状況を異常な犯罪とは誰もいわない。しかも同じことを自分以外がしている場合にはそれは非人道的であり、自分がやっているときにはそんなこと思いもしない。いつまで経っても人間はプラス方向に学習をしない。マイナス方向への学習は巧く、そちらに流れる勢いはそれはそれは凄い。

十一代目金原亭馬生

 年に二回の馬生師匠の会に行く。馬生師匠の落語を馬生師匠の中学校の同級生のひとりがやっているという鰻やさんのお店で聴く会である。もうひとりの同級生が司会をするのもいつものとおり。司会の同級生は新富町の佃大橋のたもとで洋食屋をやっている人で、その道ではちょいと有名。師匠の前に前座の駒春が上がる。道具屋をやる。噺が終わって降り掛かった時に、司会の洋食屋が「おめでたいことがございます」というから、この若さで駒春が結婚でもするのかと思ったら、二つ目昇進だそうだ。祖父が二つ目の時の名前、桂三木男を名乗るのだそうである。前座4年での昇進だ。まだまだ稽古に励んでもらいたい。この日は道具屋をやったのだけれど、そりゃもちろん以前に比べれば慣れてきたが、まだまだ。そういえば三代目の三木助(自殺しちゃったのは四代目)が死ぬぞ、死ぬぞと騒いでとうとう死んだのは58歳だと聞く。結構歳がいっていたのだと思っていたけれど、そうやって聴いてみるとあまりにも早いもんだとびっくりする。
 師匠の話は珍しく「なめる」である。圓生で聞いた噺だけれど、確かに最近はあまり聞かない。なにしろあんまり気持ちの良い噺ではない。うなぎやさんでかけるのは如何なものかと思ったけれど、はなの芝居小屋での噺の中で師匠が食べて見せた鰻の弁当が実に旨そうで、これはさすがなもんだと思った。あとで鰻重がでたらみんなで、師匠の真似をして食べるという始末である。圓生の噺でも出される弁当は鰻である。どうやらある方のサイト「落語の舞台を歩く」を拝見すると、この噺は落ちにも出てくる池之端の守田の薬「寳丹」の宣伝のために作られたといわれているんだそうで、いまでも映画なんかでこんな手段を弄しておるもの也。舞台は業平の大店の寮だけれど、相手になる熊公が住んでいるのは駒形だというが、師匠の話によると、昔は濁らずに「こまかた」といったそうである。今や駒形もバンダイの本社ができてからというものすっかり雰囲気が変わり、昔の様な下町の裏通りの雰囲気がなくなりそうだ。次回の三月には「富久」を聴かしてもらえるらしい。
 師匠の話のあと、毎回この会でお会いする面々と鰻をいただきながらワァワァとおおさわぎである。このメンバーの中にイラストの作家がいて、この人の話がいつもいつも面白い。人間はこれと思ったことは命をかけてやるという気持ちがなきゃいけないんだてぇことをいう人がいますが、私はこれまでにそんな気持ちになんてなったことがないんですよ、とお話ししたら、「俺なんて、そんな気なんかになんかなったことがない。好きなことばっかりやってきたら、こうなった」と仰るのである。なるほど、好きこそものの上手なれ、なんだ。しかし、仕事は絶対に昼にしかやらないんだという。クールダウンが必要だということもあるけれど、夜中にやるとどんどん深みにはまっていって、朝見るととんでもないことになっていたりするから、それはやらないのだという。奥方にお伺いすると、まるでサラリーマンの様に、事務所に行き、そして帰ってくるのだそうだ。前回お伺いした長命だった猫が死んで奥様大嘆きだったそうである。早晩うちにもそれがやってくるわけだ。彼は「俺は300歳まで生きてやる」と公言していたのだそうだけれども、あのジャコメッティが「千歳生きたいと思っているが、そうもなかなか生きることはできないが、せめて500歳は生きていきたい」といっていたことを聴いて「あぁ、俺はまだまだだ」と思ったという噺を聞いて、この人も相当なものだと驚いた。