ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

かわりモクレン

《写真:ちょっと変わった花びらのモクレンが小学校の校庭の網の前に花を咲かせていた。》
 日曜日、真っ青な空、冷たい北風、冬の典型的な一日。どこに住んでいるのかすぐにわかってしまうけれど、今日は投票日。ようやく静かになった。昨日は一日町中がガナリ声に満ち満ちていてうるさかった。しかし、がなっている奴に限って前から「こいつに入れないぞ」と思っていた奴なんで納得ができるというものではあったけれど。練習のあと呑み、他のバンドが練習しているところに酔って乱入し、三曲唄う。いつも遊んでくれる歳の若い仲間に感謝である。

電話セールスもこんなものまで

 今朝、電話が鳴るので出たら、ナントカという結婚相談所からで「お知らせがあります」という。一体全体なんのお知らせだというのかと思ったら「お宅に独身の方はおられませんか」というのである。この一言だけで充分に怪しい話だと思ったら「30歳以上の独身の方々のご相談に応じています」というのだ。該当者がうちにはいないのだけれども、こんな話を電話帳片手に片っ端から電話しているとでも云うのだろうか。非常に生産性が低いsales promotionだよなぁと思ったが、ひょっとするとこういうニーズを持っていることに気付かないまま暮らしている人もいるのではないかと気になった。だとすれば成功ケースがいくつか期待できると云うことか。

IC乗車券

 電車も地下鉄もバスもSuicaでもPasmoでも一枚のプリペイド・カードでもって利用できることになったとあらゆるテレビのニュースでいっていた。ん?なんで2種類なくちゃならないのだろうね。これがまず高齢者にとってはADLの低下となって認識されてしまう要因のひとつな訳である。こんなものがなくて昔みたいに切符とせいぜい回数券しかない時代には物事が単純だから誰もその生活の上で覚えなくてはならない仕組みに大したバリエーションが存在しなかった。ところが今や駅員はいないはタッチパネルで切符を買うにしても、まず最初にお金を入れるのか、それともタッチパネルの金額に触れてからお金を入れよということになるのか、そこから迷うのである。若い人たちを見ているとインストラクションなんか見なくたって、ひょいとあっちを触ってみて動かなければこっちを触ってみて、なんてことになれているから少しぐらい面倒なことが起きても大丈夫に違いないと思って、あるいはまぁ、なんか不都合が起きてもそんなこと大して重要なこととは考えずにいじって操作することがとっても上手い。ところが人様のものを壊しでもしたら大変だと考えるような価値観の時代に学校で学んだ世代にとっては、ひょっとして変なことをして壊してしまったらあとから来る人たちにどんな迷惑をかけてしまうのかわからないから、あれがだめならこれでどうだと決断していじり倒すというようなことは怖ろしくて踏み切ることなんてできなかったりするのである。すると、そこで迷いに迷うのだ。これはこの時代の若さの盛りにいる人には理解できないし、できなくて無理はない。
 そもそも一体なんで全然違う名前のカードが二種類あってどっちでもどこの駅でも使えるのかひとり暮らしの高齢者にはとても納得できない。尤もそんなにしょっちゅう乗り物に乗るわけでもない。都バスだったら安い金額で年間パスを買うことができる(あ、これもかつてはただだったん)。あのマークがあるところにパックンとタッチさせれば(正確にいえば触らなくても言い訳だけれど)それで乗り降りができて自動的に自分のカードから積んである金がクレジットされちゃうわけだけれども、どうもその要領ももう一つ確信がなかったりする。それで使わない。「良いんだよ、小銭を持っていればいいのよ、いちいち切符を買えばね、時間はあるんだから。」てなことで暮らす。しかし、ひょっと下手をするとあと5-10年くらいの間に切符なんてものを買うことのできる販売機なんてほんの少しになってしまわないとは限らない。あれだけ巷にあふれかえっていた公衆電話も既に虫の息である。いつの間にか機械のことは何もわからない、切符を買う機械は見つからない、なんてことにならないとも限らない。それで改札の前でうろうろして、後ろから来たひ孫のような年齢の小僧に「うぜぇんだよ!」と蹴飛ばされないとは限らない(もうあんな言葉は死語になっているかもね)。
 挙げ句の果てに「この人もADLが低下」なんて要介護認定の時に書かれちゃうんだよ。尤もその頃それを書いている人はフィリッピンから出稼ぎにやってきたケア・マネージャーだったりしてね(そうそう、今朝、Philippineという綴りを見ていて「フィリップのパインなんだな」と思ったなぁ)。
 今まで携帯電話を持たずに仕事をこなしてきて来年になったらリタイアしようかなぁといっている連れあいが今更携帯電話を持とうかなぁと云うので、なんで今更?と訊ねたらそのうち携帯電話がないと世の中からおいて行かれちゃう世の中になっちゃうような気がするんだよねぇ、というのである。私も携帯電話を持ってはいるが、多くの人がそうであるように肌身離さず暮らすということができない。時には家において出るし、時にはバッグに入れたまま呑み屋の椅子の足下に置いておきっぱなしとなり、丸一日携帯電話を見ないことなんて日常茶飯事である。その上メールなんてほとんど打てない。たったあれだけのキーしかないのに、そんなことできるわけがない。奴が云うのは今のうちは良いけれど、そのうちやばいかも、というわけだ。実は携帯電話からサイト見にいくなんてことが私にはできない。しかし、時代は変わったなぁ。パソコン通信で(私の場合は)ニフティを介してメールを取ることができていた頃、私は時代の先端を行っていたようである。しかし、今では携帯電話のメールも書けないと云ってみんなの顰蹙を買っている。

いえないという場合

 ある人に自分が思っていることがいえない、という人がいたとする。それはその相手が日頃から醸し出している雰囲気が自分を否定しようとしている場合であったりする。しかし、それは本当にその相手がそう思っているのかもしれないし、あるいは自分を否定しているに違いないとただ一方的に思いこんでいるだけ、という場合もある。そうかと思えばその人自身がどんな人にも自分の意思を表に出すことに対して勇気を持てず、どんなときでも自分の意思を出すと云うことをしないという人だという場合もあるだろう。普通の集団では、彼は(あるいは彼女は)あんまり文句をいわない人なんだよと認識されてそのままにされてしまう。しかるにその実はそうではない。常に自分の中に納得のできないものを抱えて日々を送ることになる。するといつの日にかなんにも手につかないという日々が到来してしまうのではないだろうか。そうなるととにかく時間を食い潰すことを何か捜すという結果となりはしないだろうか。それが酒だったりすると昔からあるパターンだったりする。しかし、それが自分の部屋でビデオやDVDを日がな一日見ていたり、ゲームに没頭だったりしないだろうか。
 「私にはそれはできない」といったり「俺はそんなこたぁやりたくねぇんだけどなぁ」という言葉を発する、「俺はそんな人間じゃないんだよ!」と言葉を投げつけたりができなくなるのかなぁ。そういえば自分もそんなことをいえない相手がいたのかもしれないなぁ。