ほぼ足りてまだ欲 その先

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書き留めておく本

「写真秘録東京裁判

 映画「東京裁判」(監督小林正樹)が作られた時にその中に使われた数多くの写真を使って作られた書籍版といえるものである。映画を見てからこちらを見れば映画の中で見落としたところも補正できるというものである。1983の発行で映画と同じように講談社が出版社。ざっと東京裁判がどの様な争点で争われたのかという点をつかむにはこの映画とこの書籍が手っ取り早い。監督の小林正樹は「人間の条件」「日本の青春」「日本の休日」「戦争と人間」等の数々の映画で知られた監督である。

「ジャパン・ボーイ」

 副題「日系アメリカ人たちの太平洋戦争」大谷勲著 1983 角川書店。大谷についてはこれまで何度も書いているが、第6回日本ノンフィクション賞新人賞を受賞した「他人の国、自分の国 日系アメリカ人オザキ家三代の記録」の著者。帰米二世として米国陸軍情報部日本語学校で対日訓練を受けた日系米国人を主人公にしたドキュメント。「帰米二世」とひと言でいっても様々な人たちがいたことがわかる。これまで米国に渡った親のもとに米国で生まれ、米国市民権を得た二世たちで日本に帰っていた経験を持つものが米国在住の親のもとに帰ってくる人たちを帰米二世と呼んでいるのだと思っていた。だけれどもこの本を読むと、中には当の親もすでに稼ぐだけ稼いで日本に帰ってきており、一緒に戻ってきた子どもたちはそのまま米国市民権を持っていて、長ずるに及んで「じゃ、行くか」と米国に行った人たちも「帰米二世」であった。彼らは親がいるわけではないので入国にあたって移民局が本当に出生証明書が正しいのかどうかのチェックのために留め置かれたのだそうだ。こうした一度米国を出国した二世は、米国市民には違いないのだけれども、米国旅券の提示だけで入国できるようになったのは1937年になってからのことだという。
 帰米二世の青年たちのスクール・ボーイ時代の話を読んでいて驚くのはこれが1930年代の話だというのに、1970年に私が初めて米国に行った時に同じサン・フランシスコで知り合った日本人の青年たちの中には当時と変わらずやはりスクール・ボーイから始めていた人たちがいたことであった。今から考えてみると彼らは本当に頑張っていた。あれから彼らはどうしたのだろうか。今でも米国にいるのだろうか。

役に立たない方法

 ひょっと想い出したのだ。中学一年の一年間、私は地方都市に暮らしていたのだけれど、数学と英語のための塾に行っていた。今から考えるとちょっと変わったところだった。そう、歳なら60歳くらいのおじさん先生*1が部屋の片隅の黒板に問題を書く。それも英語の黒板と数学の黒板があってそれを自分でノートに写し、それの答えをそこに書いて持っていき、見て貰って、「はい、OK」とか「全然だめぇ、もう一回」といわれたり。私は平日は毎日ではなかったという記憶だけれど、週末もそこに行っていた。川の縁にあってチリ地震津波の時にはその川を水が逆流し、浮かべてあった南洋材が一緒に川を遡っていった。
 ところがそんなことをしていながら私の成績は全く、なんの向上も見ないのであった。なぜか。毎回、その問題を写し終わると私はノートの前の方をどんどんめくり、似た傾向の問題を見つけ出し、そっちの答えから類推して答えを書くのである。だからこの問題に対してどんな方法を使って何を根拠に回答を導き出すのかという論理的展開ではなくて、全く根拠のない、前例なくしては何も成り立たない、全くの非論理的展開によって世の中を切り開こうと(そんな大げさなことじゃなくて、ずるをして簡単に終わらせたかっただけだけれど)していたのだった。本当に金の無駄以外の何ものでもなかったのだけれど、子ども心にこんなんで実力つくわけねぇよ、なぁんも自分じゃわかってねぇもん、と平然と思っていたのが、なんともはやであったのだ。
 ひょんなことで(平たくいってしまえばオヤジの転勤だが)そこを脱出してレベルの高い地域に行ってしまったので、焦りまくって一からやり直したから取り返すことができたのだけれど、あのままにしていたら多分理解を深めぬままだったんだろうなぁ。それにしてもなんであんなことで学校で普通にしていたんだろうかと不思議だ。理解しようなんて思っていなかった。ただただ帰りに田圃の畦で鮒を捕ることばかり考えていたような気がする。のんびりした時代だったということなのか。それとも学校に求めることというのは学力の点ではある一定線までであって、それ以上を望む人は自分でどうにかしてね、その代わり面白いこと、みんなと頑張ること、みんなと協力することは学校でいくらでも教えるからね、だったような気がする。我慢することは随分と教わった。通信簿には必ず「私語が多い」と書かれていたけれど、それでも我慢はした。廊下にも立たされたり、正座させられて下級生の目にさらされたことも何回かある。脅かされたこともあるし、待ち伏せされたこともあった。それと察知して巧いこと逃げ出したこともあった。おちゃらけて先生に平手打ちされたこともある。今から考えてみるとあの先生を甘く見た時のことだ。中学三年の時、担任の小林文治先生は「おまえはあと一回やったらもうゆるさんと思うとピタッと止めたよなぁ」といわれた。機を見るに敏。これは先生の様子をよく観察していないとできない技だと今になって思う。大人を甘く見ると痛い目を見たものだった。・・・いやなに、爺の寝言なのだ。

*1:この先生が夏になると上半身裸で団扇を片手に、誰に語ることもなく「こんな風に考えるんだとか、真面目にやらにゃいかんぞ」なんてことを大きな声で喋り続ける。この先生の背中にちょいとした傷があるのが妙に印象に残っている