只です
世の中進んでいるというのは聞いていたんだけれど、こんな処まできているのだとは思っても見なかったのである。そりゃ基礎的な授業ではあるのだけれど、こちらのUniversity of California Berkeleyのサイトでは授業がpodcastでアップされていて、同時進行で授業を聴くことができちゃう。確か慶應義塾大学なんかでもいくつかの授業を登録するとネット上で受講することができるサイトがあったような気がするが、こちらは進行とともにどんどんアップされてくるらしい。聞き取れる授業と聞き取るのはとても難しいのが私にとってはあるんだけれど、留学を考えている学生諸君なんかにとってはワクワクするんじゃないだろうか。1-2年前にはいくつかの大学がきまった企画ものをアップしている程度だったのだけれども、どんどん公開性が高まっているのだろうか。
これって・・
原子力発電の
「発電をする時には地球温暖化に影響のある二酸化炭素を排出しない原子力発電」というのは電気事業連合会のコマーシャルである。二酸化炭素を排出しないのは凄い。しかし、それ以上にやばい放射性廃棄物を排出するのが原子力発電、ていうものではないの?しかもあのプラントは運転操作を誤っちゃうと今回幾つも過去のトラブルを隠していたものが明らかになっちゃっているようにやばいなぁ!ということになっちゃうらしいじゃないの。こうなると他にも幾つもなにかが起きている可能性がない、と主張されてもそれを鵜呑みにするわけにはいかないよなぁ。頭を下げてお辞儀をしてみせればそれでなんでもOKになっちゃうんだというのは正しいとは思えない。じゃ、どうするんだということになるのだけれども、便利な生活を少しずつ不便な生活でも良いのだ、とするしかないんだと思う。さ、早く寝なくちゃ。
松岡
「私からコメントさせて頂くものではないと思っております」って、お前に聞いてんだよ。
准介護福祉士
「社会福祉士及び介護福祉士法」を改正して、これまで養成機関を卒業した場合でもそのまま介護福祉士となることができたものを必ず国家試験に受からなくては介護福祉士資格を与えられないと云うことにする一方、不合格だとしても養成機関を卒業していれば准介護福祉士なるものの資格を与えられて介護の仕事に就くことができることにするという案が提出されているそうである。これまでだって介護福祉士は名称独占の資格ではなかった。そんなもの持っていなくたって、ヘルパー二級でも、いやなんもなくても現実的に就業できる。今度から資格を持ってないとダメだよとしても、准介護福祉士で、その仕事をすることができるのであれば、いったい誰が受験勉強の苦労をして介護福祉士資格を取るだろうか。この資格を持っているかいないかで報酬が変わるのだとしたら、人件費を削減したくてしょうがない施設側は准介護福祉士の人を安く雇った方がよいに決まっている。国家試験を受けるという壁は高い。これからどんどん導入するんだぞと云っている、そしてこれは確実にそうなるであろうフィリッピンからの介護者の導入に際して、国家試験の壁は全くエベレストのように立ちはだかる。しかし、准介護福祉士という試験に関係ない資格で良いなら、只時間と金をかければどんどん有資格者を輩出することができる。そしてそれだけの教育を施すことを条件に働いて貰うのだから厚労省官僚としてはやることをやり、養成機関としてはこれまで以上に学生を集める可能性が高まり、雇用者としては試験に受かっていなくて良いのだからより安い労働力を導入できるというわけで、明確に現場の労働者、そして利用者にしわ寄せが行くだけのことになる。
一体、こんな法改正を誰が発想しているんだろうか。小賢しさが鼻についてたまらない。
誤解していたのかも知れないなぁ
今週は様々な大学でも卒業式の週だろう。あちこちできっとはかまを穿いた女学生が紙袋をぶら下げてつるんで歩いているんだろう。やったね、ってなもんだ。36年前に大学を卒業した時にとにかく企業に就職してもう遊べなくなるなと覚悟を決めたけれど、いろいろなことを知ることになるのだろうからとそれが楽しみでもあったし、一日会社の中にいるなんてこの俺につとまるのだろうかと本当に不安でもあった。そして確かに学校で教わったスキルのほとんどは全く仕事の中では役に立たなかったし、職場のすぐ上の上司は、とにかくお前の今までの知識なんてものはなんの役にも立たないのだぞと私にいやという程知らしめるための役割を果たしているのかと想ったほどだった。そしてベテラン先輩が「金があったらこんな処にはいねぇなぁ」というひと言がとても気になった。仕事はそこそこ面白くてやりがいがあった。結構面白かった。俺も男になったもんだ、と自分でもある程度満足した。金は大したことがなかったけれど、必ずや毎年ベースアップがあって収入が増えていくんだという確信があったからそれほど憂いてはいなかった。それから30年近くの間には企業の中の価値観もガラガラと音を立ててかわり、いろいろあって大学に戻ってみてわかったことはきちんと自分の価値観というものの軸を大学時代に創り上げるということができる人はそれほど多くはないけれど、それをやろうとするとできる場なんだということだった。そして、その価値観に基づく諸処の事象の捉え方をマスターすることができるのがとても楽しくやりがいのあることなのだった。つまり、40年ほど昔に大学に入った時には、そんなことを全く考えていなくて、承認された自由時間を少しでも確保しておこうとするものであったというもので、なんともお恥ずかしい限りであった。人間はず〜っと先になって初めて昔のことがわかるというのだろうか。なんとも効率の悪い時間の過ごし方であるのだなぁ。