ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

医師の方が書いておられるブログを読んで。

 先日禁固刑の求刑があって久しぶりにそんな事件を想い出したのが、「わりばし死亡事故」である。
新聞記事は検察側の論告を引いて、あの事故について、【必要な検査を怠って・・・死亡させた】と表現していた。つまり、検察側は当日の当直医が本来的に予見しなくてはいけなかったのは脳の断層撮影検査であったと判断しているということである。医師という国家試験に合格し、適切なる訓練を受けたプロフェッショナルとして当然の如く、一歩踏み込んで検査しなかったことを誤りとして指摘しているということである。
 ここで多分議論になるのは、あの状況ではどんな検査を実行したとしても結果的に脳にわりばしが刺さった状態の4歳児が助かる状況であったか、という点ではなかろうか。少なくとも医療現場のプロフェッショナルの間の議論では取り上げられそうな観点である。結論から言うと親にしてみたらどんなに可能性が残されていなかったとしてもなにかをやって欲しい。八方手を尽くして欲しい。
 この場合、少なくとも当直医は「脳にわりばしが突き刺さっている」という事実そのものを把握していなかった、という点が大きな問題点であったろうと思う。しかし、もし彼がそれを把握していながらそのままの状態で帰宅させたとするとこれはもう明らかに間違っていたことになる。
 新聞の報道姿勢が「相変わらず報道の底辺に医療不信・医者叩きが深く根付いている」と著者は仰るのだけれども、確かにその傾向がないとはいえないが、その傾向を生み出した要因は何だろうかと考えてみる必要がある。私たちはこれまで「日本医師会」のすべての分野における発言が常に医療提供側の利益に基づいてのみ行われていたり、非常に限られた一部分の悪徳医師の行動に過ぎないけれども多額な脱税が明らかになったり、儲かる診療科への医師の偏在が報じられたりすることから、はなはだ具体的ではないが、全体像に対するイメージを持つ。
 しかもそれは何らかの事件、事故、犯罪が絡む時のイメージである。なぜなら「我が町の名医、良医」について語ろうとする時にはわれわれの視点はそんな不信には根付いていない。
 むしろなにか事件が起きた時に常にその責任を問われる側は<如何に自分は問題のない行動をとったか>を述べ、その立場からの脱出を謀る。その時に多くの場合、事実を覆い隠す行為が行われる。そうした状況が多くの場合強い印象を残す、ということもある。
 もう一つは明らかに<医者は金を稼ぐ>というイメージに対する嫉妬があり、その足を引っ張りたいという気持ちだろう。社会部記者はその立場に立って書くと共感を得られやすいという傾向があることは明らか。「人の命を預かる」という表現がよく使われる。だからこそそれに相当する報酬は得られるべきであると。そして、その技術を身につけるためにはそれ相応の費用がかかっているのだという見方もある。ならば、高齢者や障害者の生活を支えている介護者の人たちはどうだ。医師ほどその資格を取るのに費用はかかっていない。だからこんなに安い報酬で構わないのか、といいたくなる。この問題はまた別に書かなくてはならないけれど。
 考えてみよう。どうやら「報道の底辺に医療不信・医者叩きが深く根付いている」ではなくて、それだけ期待され、救いの手と慕われている、(だからこそ三越のお帳場客だと得意げにテレビに出てきて、セレブだなんていっていても良いからと思われている*1)医師だからこそ、「別に問題はないでしょう」と帰宅することを指示されて挙げ句の果てに「わりばしが脳まで刺さっていたんだから助からなかったでしょうね」といわれたのでは立つ瀬がない、というものだ。
 嬉しい、素晴らしい医師の話の時はそんな不信のスタンスでは語られていない。

*1:そんな医者がテレビに出てきたことがあったということだけです