ほぼ足りてまだ欲 その先

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空襲、関東大震災

 綾川亭日乗さんがこの二つのカタストロフィについて語っておられる。
 私はもちろんこの二つについて自分では何も体験していない。何も体験してはいないのだけれども、この二つの大きな出来事を比べると、なぜか関東大震災についてははるか遠くの出来事であって、それほどの緊迫感をこれまでの人生の中で感じたこともなければ、それほどの大きな意味に気付くと云うことが遥かに少なかったと云うことができる。
 古今亭志ん生がその時、近所の酒屋に駆けつけて酒樽から思いっきり呑んだという噺を笑い話のようになにかで読んだ。その後の火事で多くの人たちが焼け死んだという話も聞いた。母校の時計台のひとつの石積が低くなっているのはその時に崩れたからだとも聞いた。しかし、自分のこの目にはその痕跡はほとんど見て取ることができなかった。そんなチャンスはほとんどない。「朝鮮人が水源に毒薬を入れた」という噂が蔓延して自警団なるものがばびぶべぼを云わせていえない奴を殺した、という話は多分なにかで読んだのだろう。周囲の大人が私にそんなことがあってなぁと話して聞かせた訳ではない。わが家には関東大震災の傷跡がどこにも見られない。両親は岡山の出身だから全く経験していないからだろう。
 しかるに東京で云えば3月10日未明をその頂点とする米軍B-29による空襲については遥かに私にとって身近な話として認識していたという記憶である。私は戦後の生まれであるが姉二人は戦中の生まれである。一体全体わが家は戦争中どこに暮らしていたのだろうか。かすかに今は亡き両親から聞いたような気がするが、もうとっくに忘れた。しかし、空襲で右往左往したという話を聞いた記憶がない。そんなことは日常茶飯事だったから話に登らなかったのだろうか。しかし、周囲の至る所に防空壕の影を見ることはできた。横浜は丘陵が連なるから横穴形式のものは多くあったのかも知れない。小学校の途中で親父の転勤にくっついて引っ越した先の清水でも多くの防空壕やトーチカの跡地を見た記憶がかすかにある。映画を見ても兵隊ものの映画は多く作られていた。それはもちろん占領が解除された1952年以降のことなのだろう。家の庭先をちょっと掘ればそこから出てくるのは瓦礫の破片ばかりだった。それは空襲で壊れた屋根瓦や瀬戸物の破片だったようだ。前にも書いたように隣の家との間の万年塀にあいた大きな穴は焼夷弾が貫通したあとだという。今でこそ空き地なぞある訳もなく家が軒を連ねているが、当時はそこここに空き地があって、それが子どもたちの公園であり、野球場であり、自転車乗りの練習場所であり、社会の縮図だった。
 私たちにとっても大人たちの会話の中に垣間見ることのできる戦争の傷の深さに気付かされるとなかなか立ち入ることができない雰囲気を感じ取るものであったことも事実である。本当に羽目板に油紙を貼り付け、タールをしみこませた布を張った家に暮らす同級生があっちにもこっちにもいたし、傷痍軍人は神社の祭りにも、週末親に連れていって貰う繁華街にも立っていた。中学か高校の頃までこうした傷痍軍人(本物かどうかという問題もあったけれど)が国電の中に乗ってきて白い箱を私に突きつけたこともある。つまり、敗戦という大きなダメージは私の人生の中でかなり後までその影響を突きつけ続けてきたのである。
 だから、空襲そのものが与えたダメージに晒されるという体験はしていないものの、学校が教えたか教えないかに関係なく、私の周囲に戦争の被害を切々と語るものには困らなかったのだ。しかし、何らかの形で戦争のダメージにかかわっている人たちの話を聞くにはあまりにも直接的であったかも知れない。だからむしろ私たちの次の世代が一世代を乗り越えて聞き取っておくことの方が保存しやすいのかも知れないという気持ちも持つ。
 事実を事実として残すという作業は確実に必要なことであって、それも曲げた形で残すべきでは断じてないと思う。人間は誰しもあとから自分がやってきたことの間違いを間違いとして認めるのはいやなこった。しかし、だからといって解釈を変えてしまっては自分の人生を美化し、小綺麗に装うことになる。じゃ、それでなにがいけないのか、といういなおりだってあるわけだけれども、それは歴史の否定だろう。その気になるしかなかった、心の底からその気になっていた、真剣にその気だった、と多くの人が言う。それは確かだ。嘘じゃない。だけれどもその気にならざるをえなかったことも確かだ。そのように意識していなかったとしても、当時の風潮、教育がそのように創り出していたのだ。だからといってその誘導が正しいと判断することの動機には与することがどうしてもできない。それはなぜか。後に続く世代を犠牲にすることによって自らの利己的な価値観を高めてきたからである。多くの人が犠牲になる価値観はやっぱりおかしい。
 ところで、10年ほど前にオーストラリアの北にあるNothern Territoryのダーウィンに行った時に、博物館で「この街が経験した二大カタストロフィ」をみると、そのひとつは1974年のCyclone Tracyであり、いまひとつは1942年の日本軍による64回の空襲である。天災と空襲という点では共通しているのである。