ほぼ足りてまだ欲 その先

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 今日のテーマは「記事に神社職員寮の場所を掲載したのは、プライバシー保護上、問題だ」という理由で靖国神社朝日新聞の取材を拒否。この取材拒否はもっともだと思いますか?それとも、おかしいと思いますか?というものだった。1. もっともだ!:205 2. おかしい:64 3. その他:77 で圧倒的に取材拒否されてもっともだという結論。
近頃は時代は全体主義への逆戻りに粛々と功を奏していることを感じる。素晴らしいといっても良いほどの効果を上げていることを実感する。加藤紘一の実家に対する放火事件がそれほどの驚きを持って受け止められているとは思えない状況もこれを裏打ちしているかも知れない。
 今晩のNHK BS-1のBS特集「カラー映像記録 よみがえる昭和初期の日本」を見ていたら、中国各地の戦闘で日本軍が圧倒的な勝利を告げられるたびに繰り広げられた祝賀行事の模様が描かれていた。そして皇居前での万歳の様子を告げる中で使われた「いつのまにか」という言葉が心に重い。その「いつの間にか」という状況には私たちは常に監視を怠ってはならないと思う。「いつの間にか」“非国民”というラベルが日常的なものとなって行ったのだと思う。どんな出自を持っていようと、どんな価値観を持っていようと、その国に暮らし、その国を自分が属する国だとした人たちはすべからく「国民」であり、たったひとつの価値観にそぐわしくない人を全て「非」国民だとするラベリングはあってはならない。
 そういえば日本の中だけで暮らしていた頃、日本の外に初めて出た時に価値観にはたったひとつの尺度では考えられない多く面からのものの見方があるんだと気付いて本当に驚いた。「日本の常識は世界の非常識」という人すらいた。頷くことも多かった。しかし、育った価値観だけに、「世界の非常識」かも知れないけれども、その中で暮らすことの方が私たちにとっては心地よい、居やすい状況だったりするわけである。それに気付いてしまうと、そこからわざわざはずれて自分を叱咤激励して、まぁ今のいい方でいってみればユニバーサルな考え方で生きていこうとするとそれは結構面倒だったり、マメであらなくてはならないし、意識しなくてはやっていけなかったりする。そんなんだったら、自分が優位な価値観の中で生きた方がなんぼか楽だし、気分的にリラックスできる。
 あいつを殴った。なんで殴ったかと聞かれた。あいつは昔は俺にいろいろなことを教えてくれたんだから俺も尊敬していたんだけれど、最近どうもたるんでいる、それを引き締めるために殴るしかなかったんだ、と説明した。しかし、私が殴ったあいつはいつまでもそれを忘れずに、謝れ、謝れとうるさい。表通りの藪内君が間に入ってくれたことがあって、仲直りをした。ところがあいつはその時の俺が「ご迷惑をおかけした」といった言葉をそんなのは通りかかった人に撒いている水をかけてしまった店員が謝る時に使う言葉だ、と難癖をつけた。その辺からねじ曲がってきた。その後俺は「遺憾だ」とか「反省している」とかいった。それでもあいつは俺を許さない。もう勝手にしろってんだ。そうだ!そうだ!
 楽なんだなぁ、諦めちゃうのは。人生だって、諦めちゃう方が楽だもの、抗うよりは。
 そのうち、ジャズを聴いていると「非国民」といわれちゃったりするかなぁ。楽しいのに。