ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

官僚の共通点か

 まったくの偶然のようにして富山えん罪事件というものを知った。
 富山のタクシー運転手の方が婦女暴行容疑で逮捕され、有罪として刑が確定して服役を終えて出所した後、真犯人が判明したというえん罪事件である。しかし、問題なのは再審において刑は取り消されたものの、何故こうした全くなんの罪もない市民がこういう状況に巻き込まれ、警察が断定し、送検され、起訴され、公判がそのまま維持され、有罪判決が下されたのか、当時この事件を担当した、関係者がどのように間違ったのかが明らかにされていない。「間違いだった、この人は無罪」で終わってしまう。それではならじと、ご本人は国や県などに計約1億円の損害賠償を求めた国家賠償請求訴訟を起こした。原告となった富山県は「捜査に違法性はなかった」と主張している。法的には間違ってはいなかったけれど、判断を間違ってしまったんだという主張と云うことになるというのだろうか。
 それにしては伝えられる判断証拠は今から見ると明らかに法的にも間違っている。翻した罪状認否について「今後一切翻すことはしない」と紙に書かせた、という事実だけでもすでに間違っている。凶器や手を縛ったと被害者がした証言と一致する証拠は何も出ていないにもかかわらず、「(被害者の)気が動転していた」という説明をつけている・・等々どう考えても納得のいかないことが出てきている。
 足利幼女殺人事件の管家さんの事件でもDNAが一致していないという明白な証拠が判明してしまって、明らかに警察、検察の失態は自明ではあるが、それではなぜ判決が出て、刑が確定するところにまでいってしまったのかが明らかになるのかと云えば、このままでは多分富山えん罪事件と同様に「間違いだった、この人は無罪」でおしまいになってしまうだろう。
 このままの状態ではこうしたえん罪は生産され続ける可能性は大いにあり、その結果が判明したとしてもこうした「間違い、無罪」でおしまいが続けられることになる。足利の事件では管家さんの精神鑑定書が出ていて、この人を「代償性小児性愛者」だと断定したのは上智大学犯罪心理学者として著書もたくさんある福島章教授だったと聞いてますます驚いた。しかも、彼は2006年に訴えられたところで、当時その判断をした資料たる録音テープをすでに廃棄したと言明している。
 捜査に当たった一人一人の警察官、そしてそれを元に起訴した検察官がいかなる資料に基づいて判断したのか、という点は非常に重要な要素になるわけで、それらを元に判決を書いた裁判官についてもその判断が正しいか正しくないかは非常に重要なのは云うまでもない。
 しかし、「これは間違い、この人は無罪」だけで終わってしまうのであれば、いつまでも同じ状況は続く。
 総事業費4600億円のうち3217億円をすでに遣ってきている八ッ場ダムについて誰も国側では予算執行を躊躇する振り返りもなしにここまでやってきた理由の一つには、この「一人一人の担当者のその時点の判断を問わない」という不文律があるから、というところと共通の匂いがする。
 高知のスクールバス運転手の方の事件にも、そしてあの毒カレー事件にも、御殿場の暴行事件、そして佐賀の知的障害のある男性の事件にもどうしても同じ匂いがする。
 今思いつくままにざっと挙げた事件だけでもこれだけ怪しいものがあるのに、これが裁判員制度の法廷で本当に明らかにすることができるだろうか。なにしろ本人が犯行を認めているかいないかはこれまでのえん罪事件を見ているとそれは大いに疑うべきだからだ。和歌山の毒カレー事件はここまで来てしまったけれど、状況証拠しかないことは明らかだ。彼女は確かに怪しくて、テレビで見る限り人間的にはあの行動など見ていると私だって好きにはなれない。なれないけれど、状況証拠しかないのに、有罪判決を下すのは許されることではない。では被害者家族が救われないではないか、というのとは全く別の問題。
 官憲が逃げ回るのを許してはいけないのだ。そうでないとこの事態は永久にこの国では続くことになる。