企業が永遠に続くということはあり得ないのは歴史を振り返るとよくわかるのだけれど、それにしてもYAMAHAやSONYの凋落振りを見ると、随分簡単なものなんだなという印象が強い。全く不動のトップメーカーというイメージが揺るぎなく感じていたし、品質、あるいは商品力というものが他とは段違いのセンスを見せていると思っていた。それが一体何をきっかけにしてこんなことになっていくのだろうか。
時計メーカーにも、万年筆メーカーにもそんなことを感じる。素晴らしい商品センスを誇っていた時期があって、今でも企業としても商品としてもなくなってはいないんだけれど、もう既に過去のブランドになりつつある、というのが共通点か。しかし、これまでのイメージがあるからまだ顧客からの信用力はある。しかし、もう昔のようなオールマイティーではあり得ない。
何が企業の根幹を創り出すのだろうか。どんな種類のメーカーでも、やっぱりその根幹は人間であって、社員に高邁なマインドがないと何もかもクリエイティブたり得ない。クリエイティブな提案が商品化や企業の運営に出てくるのはそんなことを考えようという意識を持つ社員が、その提案を聞いてくれる場があるという確信があるからこその筈だ。もし、それが提案しても無視されるとか、「君はそんなことは考えなくて良いのだよ、それをする人は他にいる」といわれたらもう誰も提案すらしないし、そうした視点を持たないことになるだろう。
例えばSONYのウォークマンがあんなにヒットしたのはとにかく自分の好きな音楽をどこででも聞くことができるということを実現したという、誰も商品化を考えようともしなかったニーズを掘り起こしたことにある。通勤の電車の中でテープにあわせて唄う奴が出るのには閉口したけれど。AppleのiPodはあのウォークマンがなかったら出てこなかっただろう。
AppleのiPadにしても私は日本のメーカーの方がよっぽど近いところにいたと思う。その証拠に小さいパソコンという点ではSONYのVAIOの方がなんぼか昔から商品化していた。今でも私はiPadよりも同じAppleの商品ならMacBookAirの方が使いやすさという点では上だと思っている。iPadではテキストの入力はあまりにもやりにくい。外付けのキーボードが必要だ。しかし、MacBookAirよりはiPadの方が意外感があって、「これまで見たことがなかった感」満載で、ワクワクするという点では遙かに上だ。特にこれを持たないと死んでしまうというものでない商品にはこのワクワク感は重要だ。
SONYが小さなパソコンを次々に出していた時に私はAppleはアメリカ人だから、パソコンを鞄に入れて重い思いをしている奴なんていないから奴らにはわからないのだろうとさんざん言ってきた。しかし、やっぱり彼らにはわかっていた。
YAMAHAだって(私はバイクのことはわからない)、NSのスピーカーにしろ、グラスファイバーのスキー板にしろ、ワクワク感が(イメージとして作られたものだったかも知れないけれど)あった。
日本人はちょっとした簡単なことでも、そのワクワク感さえあれば飛びつき、それに飽きるとさっさといなくなるという性癖がある。だから、油断も隙もないのだ。
これは話は別だけれど、労働集約的産業はどんどん日本では難しくなっていく。どんどん市場を他国に公開していかないとやっていけなくなるんだと輸出産業はいっている様だけれど、君たちは外に出ていくんだろ?だったら余計なことはして欲しくないものなんだよなぁ。