ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

英語

 第二獲得言語も良いところの私の英語だけれど、まるで鍋の中の豆腐のようで(たとえが落語そのものだなぁ)、時間と共にあっちが欠け、こっちが崩れてもはやボロボロだ。じゃ、昔は真四角なままかっちりしていたのかといったら、そこはそれ私のことだから適当にさぼった結果でしかなかったのだから、崩れた結果としてもはや形をなしていない。
 最も英語に力を入れていたのは中学三年から高校を卒業するまでの4年間に過ぎないかも知れない。中学一年から二年の間は前に見た英文を見比べてただそれをなぞるだけだった。その当時に、いわゆる(教育ママ)だったうちのおふくろがどこから聴いてきたのか、同学年の幼友達と一緒に某塾へ放り込んだ。その塾は週に二回、二時間行くだけなのだけれど、その間にでてきた文章を徹底的に口で暗唱できるようにして行かなくてはならないという方式だった。こう聞いただけだったら(なぁんだ!)てなものであるけれど、たった二時間の授業の中で出てくる文章の量が生半可な数ではなかった、というところにポイントがある。
 当時、学校への行き帰りは中学も高校も電車に乗っていたものだから、その間の時間が私にとっては貴重だった。ぶつぶつ暗唱している生徒は不気味だろう。あの時に落語を暗唱していたら今頃噺家になっていたことだろうというくらいだ。
 ところがこの歳まで来てみると、ふと気がつくと頭の中に残っている英語力の殆どはこの頃獲得したもので、その後大学(・・あ、これは殆どやらなかったか)、社会に出てから獲得した知識としての英語力なんてものは退職したら10年も経たないうちに、あっという間に雲散霧消してしまったのである。錆びるといういい方も、かなり的を射ているけれど、むしろこの雲散霧消の方がより適切なような気がする。錆となって残っているのかといったら、むしろ消えていってしまったといった方が良い。
 なんかの加減で英語を口にすることがあるときに思わず出てくるのがこのときに繰り返してつぶやいていた文章の形態なのである。だから、ただ聞いているだけじゃその進歩は相当に遅く、口先でつぶやくところまでやればそれは早いはずだ。
 「ながら」で獲得するといってもただ聞き流しただけでは一体ゴールはいつだ、ということにしかならない。あれだけテレビでもラジオでも紙媒体でも宣伝し続ける「イージー語」は金がかかる。確かに耳がいきなり立つということはあって、その時は頭の中で英語を日本語に置き換えるという動作をすることがなくなり、英語そのものがそのままくっきりとしたままで染みこんでくる。それがいつからだったのかといわれると記憶になくて、あるとき気がついていたらそういうことになっていた、と云うことに気がつく。そしてこれは英語から離れていると、なくなってしまっていて、また置き換え動作をしている。ところがまたそんな環境にいると、突然置き換えていないことに気がつく、ということが繰り返される。
 ただし、なかなか難しいのは数字なんである。ニュースを聞いていて引っかかってしまうのはそこだ。今から考えると某大学の言語教育でめったやたらと数字のディクテイションが化せられていたのはここを理解しているからだったのだ。ある程度までいったのに、もはやそれも雲散・・・。
 うちのとっつぁんは理系の男だったものだから、私が英語学習に余念がないまま数学を放り出したことに、最後の最後まで残念だったようだ。