ほぼ足りてまだ欲 その先

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先祖

 その昔、まだ私が小学校1-2年生の頃。確かあれはひい婆さんのお葬式があって、岡山のおふくろの実家に行ったときのことだ。節三爺さんが私の前にごろごろっと巻物を広げていいました。「良いかね、うちはなぁ、桓武天皇につながる家系を持っている。鎌倉の〜いうところにいったら、この御先祖様の〜の墓があるはずだから、是非、見てきて貰いたい!」
 節三爺さんは背の低い、そう、丁度私くらいで、頭はもう少ない白髪の刈り込みで、惣丁度今の私のような、眼が細くてへの字になっていて、そうもう今の私そっくり、な爺さんだった。声はちょっとだみ声なんだけれど、歯切れの良い(?)岡山弁でしゃりしゃりと喋った。「何が食べてぇんなら?ン?饂飩を食うか?」というので、どうして良いのかわからない私がうんと頷いたら向かいの食堂に行って丼に入った饂飩を持ってきたのには驚いた。
 たった一人の従兄弟の博文は私と4歳違いだったから、もう小学校高学年だったのだろうが、この節三さんにぞんざいな口を利いた。「うるせぇ、爺!」といったのには驚いた。彼は一人っ子だったからなぁ。
 当時の田舎はもちろんトイレはポットンだ。同じポットンなのに、なぜかオヤジの実家がいやだった。なんだかおっかなそうな人がたくさんいたからかも知れない。実際にはオヤジの姉さんも、その長男も、今から考えてみれば、のんびりした人たちだった。それでなくても岡山弁がのんびりした人を作り出していたのかも知れない。なにしろ、なにかといったら「せぇでなぁ、〜なんじゃ」「どけぇ、いきょんなら」なんだから、急いでいるような気がしない。サイクルがあわない。
 ところが私はその前の代がどんなだったのか、なんだったのか、ぜんぜん知らない。なんにもしらない。どうせ両方とも農家だった。おふくろの家には槍が残っていたんだっていうけれど、それが武士だった証拠にはならないだろう。なんせ昔の戦には農民も狩り出されていたんだから。ずっと先は本当はなんだろう。さっきの家系図だって、本物かどうか、わかったもんじゃない。なにしろ家系図を作る商売があったというし、そんなものはみんななんとか天皇につながっていたというし。
 多分その先はきっと朝鮮半島から渡ってきた人だったに相違ない。多分相当数の日本人の先祖はそうだろう。中には中国本土からそのまま来た人もいて、当時はそんな人たちはあがめられたんだろう。
 国粋主義者の気持ちがわからん。