ほぼ足りてまだ欲 その先

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大阪 君が代

 大阪府の「君が代起立条例」や教育長の通達は違憲として、大阪府に処分取り消しと100万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、大阪地裁は6日、請求を棄却したと報じられた。この判決をしたのは内藤裕之裁判長で、通達や職務命令に関し「思想、良心の自由の間接的な制約となることは否定できないが、式の円滑な進行のため、許容できる程度の合理性がある」と同種訴訟の最高裁判例を踏襲。職務命令の根拠となる起立条例も「違憲とはいえない」と判断したという。
 この条例は橋下徹の維新がばたばたっと作ってしまった条例である。この判決では憲法で保障された表現、信条の自由は認めているものの、「儀式的な所作で個人の思想・良心の自由を制約するものではない」としている。ポイントはここだ。
 「単なる儀式」なんだからそんな堅いこと言うなよ、といっている。この裁判官がどんな教育を学校家庭で受けてきたのか知らないが、「まぁ、まぁ、そんな堅いこと云うなよぉ・・」というずるずるなところで生きてきたんだろうなぁという気はする。
 多分ほとんどの人はそんな印象を持っていることだろう。東京のケースもそうだけれど、実はここを見逃すと、どこまでも坂道を転がり落ちていってしまう。ま、こういう危惧をも、この種の人たちは「大袈裟だ、まさかこの時代にそんなことにはならない」と云っているだろう。
 国旗及び国歌に関する法律が制定されたのは1999年。当時の国会の特別委員会で文部大臣・有馬朗人がこういっている。

 学校における国旗・国歌の指導は、児童生徒に我が国の国旗と国歌の意義を理解させ、これを尊重する態度を育てるとともに、諸外国の国旗や国歌に対して同様に尊重する態度を育てていくものでございます。こういう点から、学習指導要領に基づきまして校長、教員は児童生徒を指導するものでございます。このことは、今先生(自民党の南野知惠子)御指摘のように、児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではございません。あくまでも教育指導上の課題として指導を進めていくことを意味するものでございます。今回の法制化は、国旗・国歌の根拠について、慣習であるものを成文法としてより明確に位置づけるものでございまして、学校におけるこれまでの国旗・国歌の指導に関する取り扱いを変えるものではございません。(1999年7月30日第145回国会 国旗及び国歌に関する特別委員会 第3号)

 これまでも何回も繰り返されてきたことだけれど、この法律が議論されていたとき、国会では何度も「強制するものではない」と答弁されてきている。確か皇居の園遊会の時にも天皇陛下も言及していたことを想い出す。
 当時の国会でも論議になっていたのは、この歌の歌詞の意味であり、この歌と旗にまつわる戦時中のイメージでもある。いくら旭日大綬章の議員と大臣(上記の有馬と南野)が言い繕っても歌と旗に染みついた滲みはいかんともしがたい。戦後70年を過ぎてその思いを抱えていた人たちがどんどんこの世の中から退場していってしまうと、それを語ること自体がもう既に「非国民」だとか、愛国心がないとか、国を尊ぶ心がないとか、云われかねない。そうして醸成される雰囲気がどんどん、あれほどの痛みを受け、加えた歴史を無にしていく。それが怖い。
 スポーツで代表チームが一致団結して国際試合に立ち向かっていくのと、過去の歴史とを混同してはならない。それはヒットラーベルリンオリンピックナチスのために利用した、あの考えに限りなくすり寄っていくことになる。
 本当は東西ドイツが合併復活したときにオリンピックでの国家の代わりに演奏されたベートーベンの第九のような、そんな歌になったら良かったのに、と思う。

第145回国会 国旗及び国歌に関する特別委員会 第4号1999年8月2日
自民党亀井郁夫亀井静香の兄)の質問に対する当時の官房長官野中広務の答弁:
 繰り返し御答弁申し上げておりますが、国旗・国歌の法制化と憲法19条の思想及び良心の自由との関係につきましては、政府といたしましては、法制化に当たりまして、国旗の掲揚及び国歌の斉唱に関しまして義務づけを行うようなことは一切考えていないところでございまして、各人の内心にまで立ち入って国旗・国歌に対する思いを強制するものではないという亀井委員の御指摘はまさにそのとおりでございます。